各国情勢〜アフリカ編〜

 

欧州・アフリカ首脳会議(カイロ)

 今年4月,欧州連合(EU)15カ国とアフリカ統一機構(OAU)52カ国が参加した首脳会議が持たれました.

会議の主要課題は,当然ながら貧困問題です。

アフリカの52か国中,一日一人当たりの生活費が一ドル以下という最貧国は33カ国にものぼります.世界の最貧国48カ国のうち四分の三が同大陸に集中しています.

 自然災害、ことにここ数年続く干ばつはきわめて深刻です.牧草が育たず、家畜が餓死し、大量の難民が発生しています.とくにアフリカの角地域では千二百万人が飢餓に直面しています.

 もう一つの課題が絶え間ない国内・国際間の紛争です。エチオピアとエリトリアの紛争は,いまやソマリアにも飛び火しています。98年8月には、コンゴ民主共和国(旧ザイール)で内戦が始まりました.この内戦をきっかけに、周辺国のルワンダ、ウガンダ、ジンバブエ、アンゴラ、ナミビアが戦争に巻き込まれています.99年7月にいったん停戦協定が調印されましたが,その後も紛争の収まる気配はありません.

 国際間の紛争に加え,各国国内での内戦も今や数え切れないほどです.スーダン、アルジェリア、ブルンジ、アンゴラなどの内戦は多数の犠牲者と物的損害をもたらしました.そして土地を荒廃させ飢餓と難民を創出しました。ソマリア、コンゴ、シエラレオネ、チャドなどでは今でも事実上の無政府状態にあります.

 アフリカの内戦でやりきれないのは,独裁政権もひどいが,これに対抗する反政府ゲリラの側にもおよそ節操が感じられず,事実上山賊化していることです.さらに少年兵問題,歪められたイスラムや,シャリアなどを背景とする女性への性的迫害など,暗澹たるものがあります.

先進国による武器の売り込みが,天文学的な数の犠牲者を生み出しています.これらの武器がなくとも,彼らは鉈や斧で虐殺したかも知れませんが…

エイズの問題

 アフリカ,特に南部アフリカではエイズ問題が深刻です.このまま行けば民族が絶滅してしまうのではないかともいわれています.ジンバブエの平均寿命は、7年前には61歳でしたが、今では49歳にまで下がっています.そして数年後には,40歳程度まで短くなってしまうと予測されています。これは,歴史が100−200年逆戻りしてしまうのに等しいことです。

 インターネットのアフリカのページに掲載されていた文章を要約して載せます.

 昨年6月に発表された国連の報告書で、すでにアフリカのエイズ問題の深刻さが指摘されている

 HIVは、1950年代ごろコンゴ地方のチンパンジーから人間に感染した.その後10年ほどのあいだに,この地域のゲリラや政府軍の兵士、商人たちの体を経由して、アフリカ一帯へと広がった。1970年代には、アメリカやヨーロッパへも広がり始めた。

 アフリカのエイズ問題が深刻化したのは1990年代に入ってからだった。1990年代後半、エイズはアフリカ南部の国々にとって最も深刻な問題となった。ボツワナの感染者は、1992年には国民の10%だったものが、1997年には25.1%にまで増えた。

 HIV感染者は、とくに軍隊において高い比率を示している.ジンバブエでは兵士の80%,アンゴラ軍では感染率50%といわれている.

 アフリカでは人々のエイズに対するタブー視が非常に強い.HIV感染者は解雇され、家族ごと集落から追放され、果ては近所の人々に殴り殺されることすらある.家庭内でも,感染した家族を家に入れず、納屋などに閉じこめてしまう.このため、多くの人は、感染していたとしても、誰にもなんにも言わない.

 葬儀屋はエイズ患者の死体の埋葬を拒否する.医者は患者に配慮して、死因をエイズとは書かない.

 アフリカ南部の人々は、エイズの発症を抑える高価な薬を買う経済力はない.感染していることが分かったら、死を待つしかない。

 とくに若い女性で感染率が高くなっている.1997年の調査では、妊娠中の女性の43%がHIV感染していた。隣国のジンバブエでも妊婦の32%が感染している.

 若い女性の感染者が多いのは,女性が強姦されることが多いからでもある.強姦の際に性器を傷つけられ、その傷からウイルスが体内に入ってしまう.ケニヤでは、女性の4人に一人が、強姦によって処女を失っている.15歳から19歳までの若者のうち、女性の22%がHIV感染している一方、男性の感染率は4%にとどまっている。

 HIV感染については、出産の際に調べることが多い.妻が感染していると知るや、逆上して殴りかかる夫も多い.そして、自分自身はHIV検査を受けることを拒否し、妻が他の男からウイルスをもらってきたと主張し、妻の「不貞」をなじる. その挙句、夫が先に発症し、自分が原因であったことがばれるのである.

 最後には夫婦とも亡くなり、孤児だけが残される.

 

 最近のソマリア

 最近はソマリアの話題をトンと耳にしなくなりました.しかし状況は依然マックラです.

 現在ソマリアは三つの地域に分裂しています.一つは首都モガディシュを中心としインド洋に面する海岸地帯.一つはエチオピアと国境を接する「ソマリランド共和国」,そしてもう一つが北東部の旧英領ソマリランド地域です.

 この国では1990年まで,バーレという将軍が独裁を続けていました.この独裁政権を打倒したのが統一ソマリア会議ですが,大統領アリ・マハディ派とアイディード将軍派の対立へと向かっていきました.この内戦で百万人が国外難民となったのは周知の事実です.

 モザンビーク

 インターネットによくまとまった紹介があったので要約して転載します.

 モザンビーク解放戦線(フレリモ)は,十年にわたるゲリラ闘争の末,1974年に独立を勝ち取った.

 独立したモザンビークは、ローデシアの解放闘争を支援するため,ローデシアにつながる鉄道や幹線道路を封鎖した。76年、ローデシア軍はモザンビークに対する空爆を開始.また元ポルトガル領時代の秘密警察関係者らを集めMNR(モザンビーク民族抵抗運動)というゲリラ組織を発足させた。

 後にレナモと名前を変えるMNRは、80年代後半から次第に勢力を増し,インフラを破壊し農村を焼き討ちした.住む場所を追われた人々は難民化していった。

 一方のフレリモ政権は急速な中央集権化を行い、「革命的政策」を打ち出したが、紛争の激化により政府としての能力を失っていった。

 内戦は16年にわたり,その犠牲者は100万人にのぼった。特に中部や北部で大規模な数の難民が発生した。難民数は、なんと人口の三分の一に上った。

 南アフリカの政策転換は、16年たってようやくモザンビークの紛争を終結に導いた。92年ローマにおいて、最終的な和平協定が調印され、ようやくモザンビークは平和への道を歩き始めることとなった。

 紛争が残したものは、焼き尽くされた農村や畑、200万個にも上る地雷、残虐な行為によって受けた精神的身体的障害、親族の離散、チャイルドソルジャー、寸断された道路と行政機構であった。

 国連平和維持活動による停戦合意と武装解除の監視、選挙支援及び監視活動が行われた。しかし人々の平和への不信感は大きく、難民の帰還も進まなかった。

 94年,国際的な圧力と人々の選挙への熱意により、選挙が無事終了した.選挙はフレリモの勝利に終わり、レナモは選挙結果を受け入れた。99年になるとモザンビークの復興は、「モデルケース」として認識にされるようになり、国際的な注目も集めていた。

 歴史上でも類を見ないほどの規模の被害を出したモザンビークの紛争であったが、そのモザンビークが「復興のモデル」とされる程にまでなれたのは、名もなき一人一人のモザンビーク人の前向きな努力の賜物であろう。

 

 アルジェリア:GIAの蛮行が下火に

 97年2月,武装イスラム集団(GIA)の発した宣言は恐ろしいものでした.「すべての背教者と彼らに味方するもの(要するに彼ら以外のすべてのもの)の喉を切り裂く.歌手や芸術家,ジャーナリスト,兵士,警察官はすべて無信仰者であり,彼らは殺されるであろう」

そして彼らは確実にそれを実行しました.田舎の村が襲われ,女性,子供,老人の見境なく全員が虐殺されました.女性であれば子供であろうと必ずレイプされてから喉を掻き切られたのです.

 学校こそは彼らにとって最も憎むべきものでした.これまで1000校近くが破壊され,教師200人以上が殺されています.

 それ以外にも,多くの人々が喉を掻き切られています.100人以上の外国人をふくむ6万5千以上の人がテロの犠牲となりました.眼鏡をかけていたり,洋服を着ていたり,教養がありそうな様子をしているだけでも狙われます.ヘジャブ(頭巾)をかぶらなかった女子学生も,それだけで殺さ黷トいます.

 GIAを支援し,軍事訓練をしているのはレバノンのヒズボラです.その背後にはイランがいます.直接の戦闘(虐殺)にあたるのはアフガン帰りのムジャヒディンたちです.最近,テロ活動が収まってきたとの報道もありますが,本質的には何も解決していません.

 エチオピア

エチオピア=エリトリア戦争

 今回のエチオピア=エリトリア戦争ほど理由がよく分からない戦争も珍しいでしょう.両 国の政府は「なぜ相手が攻めてきたのか分からない.攻められたから応戦しているだけだ」と主張し合っているそうです.闘っている当事者がなぜ闘っているか分からないというのだから,これ以上分からない話はありません.

 エリトリアはかつてはエチオピアの一部でしたが,19世紀末からはイタリアの植民地として分離支配されていました.第2次大戦のあとエリトリアはいったん独立しました.しかし1962年には,エチオピアがエリトリアを強制的に併合してしまいました.その後エリトリアの人たちは30年にわたる独立戦争を闘うことになります.

 ところで,エチオピアは単一民族国家でもないし,単一宗教国家でもないということに注意しておく必要があります.もともとエチオピアは,黒人の住んでいたアビシニア高原に,イエーメン方面からセム系の人々が入り込んで作り上げた征服国家です.

 さらに征服者そのものがアムハラ,ティグレ,オロモの三つの氏族に分かれており,中で最大のアムハラ族が政権を握っていたのがエチオピア王国です.アムハラ族は,自らの支配的宗教であるコプト派キリスト教を国教として定めました.しかし現在も,国民の1/3はイスラム教徒です.

 ハイレ・セラシエ皇帝の追放はオロモ族出身のメンギスツによるものでした.メンギスツ軍事独裁は,数十万のアムハラ人を虐殺したといわれています.

 92年,メンギスツ政権は,各地で起きたゲリラ闘争の前にあっけなく崩壊してしまいます.今度はティグレ族が政権を担当することになりました.ティグレ族の居住地域はもともとエリトリアに近い北西部でした.彼らはエリトリアのゲリラから軍事援助を受けて闘いました.権力を握ったゲリラ勢力はエリトリアの独立を認めました.以来,両国政府間は,蜜月とまでは行かないものの,良好な関係が続いている,と思われていました.

 真相が分からないだけに,さまざまな推測が飛んでいます.それらに一致しているのは,いまや純然たる内陸国となったエチオピアと,その外港としての役割を果たすことが最大の経済基盤であるエリトリアとの,抜き差しならない相互依存関係です.

 こういう関係の下では,大体において商業機能を握るエリトリア側に有利になります.両者が平和に交易をおこなうなかで,両者の不平等は拡大し,エチオピア側に不満が蓄積していく関係です.

 とくに97年のエリトリア新通貨発行,98年のアッサブ港の閉鎖などは,エチオピア側に深い恨みを残した可能性があります.

 紛争そのものはさほど泥沼化はしないと思いますが,この経済構造がある限り,両国間の軋轢は今後とも避けられないでしょう.

 

 ジンバブエで起きていること,その背景

土地占拠の実態

 今年に入って,元ゲリラ兵士たちによる白人農園の占拠が始まりました.最初の数週間だけで1000あまりの農園が占拠され,その後も各地に広がっています.白人を襲撃する事件も頻発しています.ジンバブエからは多くの白人が脱出しつつあります.どさくさにまぎれて野党MDCの活動家にも危害が加えられています.

 問題は,この土地占拠が,明らかに現職大統領であるムガペの「やらせ」であることです.すでに20年も大統領の地位にあるムガベは、形勢不利が伝えられる総選挙に向けて、白人所有の土地の接収を争点として打ち出しました。つまり,土地問題を選挙に勝つための手段として利用しようとしているのです.このことは弁護のしようがない誤りです.

 ただ私たちは,かつてアフリカ南部における希望の星であったムガベを知っています.私たちは,ムガペを追い込んだものをまず知らなければなりません.そしてムガペの敗北から学ばなければなりません.ムガベが敗れた相手と対決するために,私たちがどう対処すべきなのかを考えなければなりません.

ジンバブエ独立とランカスター協定

 ジンバブエは80年にイギリス植民地「南ローデシア」が独立してできた国です.ジンバブエという国名は,欧州列強に植民地化される前,この地にあった古代王国の名前です.ボブ・マーレーの曲にもよく出てきます.

 ジンバブエは南部アフリカで平和裏に政権が移譲された最初の国でした.それまでは南アフリカと同様,白人政権による黒人差別が続いていました.独立にあたりランカスター協定という合意が,イギリスと新政府とのあいだにかわされました.憲法に土地所有の保護を認める条文が盛り込まれ,その修正は少なくとも7年間は禁止されました.この結果,出国する白人は一部にとどまり,多くの白人農園主ヘそのまま経営を続けました.

 ただ抑えておかなければならないのは,ランカスター協定は未来永劫に白人の土地所有を続けることを決めたものではないということです.条文では,十年間のあいだに着実に農地改革を進め,白人の確保した土地を政府に返還していくことが謳われていました.当然この合意の一方の責任者であるイギリスには,合意を実行する責任があります.責任とは,具体的には土地返還の保証金を拠出することに他なりません.

 この妥協は,自分の土地を求めて闘ってきた多くの人々には辛い選択でした.しかし白人の農業によって輸出作物を作りだしている,この国の経済構造を無視するわけには行きません.さらに性急な改革をおこなうことで,旧支配層の反発を招き,内戦へと落ち込んでいった隣の国,モザンビークの経験を目の当たりにしています.

経済の行きづまりと矛盾の激化

 その後の10年間、ジンバブエは比較的順調な歩みを続けました.白人から黒人への政権移譲がスムーズに行われたことから,将来のアフリカを考える一つのモデルケースと考えられてきました.

 しかし90年代にはいると経済危機は深刻化してきました.それはジンバブエに限らず,途上国何処でもそうだったのですが,土地改革に着手してこなかったジンバブエでは,経済不安がそのまま民衆の不満に直結することになりました.

 独立後,黒人農家のうち恩恵を受けたのは6万2000世帯,対象者の1/3にとどまっていました.五千足らずの白人農場主が耕地の3分の1を占有し続けました.いっぽうで農業部門の過剰労働力を吸収するため,公共部門がかなり肥大していました.こういう国にIMFの干渉が入ればどうなるかは明らかです.

 ムガベが土地占拠を煽る以前から,すでに土地なし農民の白人農園占拠が始まっていました.ムガペは,言葉では農地改革を推進すると言いつつもも,実際は白人の権益を保護する立場をとり続けてきました.

 90年代後半,経済状況はますます悪化しました.失業率は50%に達しました.緊縮経済は公務員など都市の労働者を直撃しました.これまで政権を支持してきた最大の基盤である公務員が,公然と非難の声を上げ始めました.デモとストがあいつぐなかで,政府機能は麻痺状態に陥りました.

 さらに労働者や都市住民は,政治的にも反ムガペの立場を明らかにしました.ジンバブエ労働総同盟の書記長を務めるツヴァンギライは,みずから民主変革運動(MDC)を結成しました.

 経済要求が政治闘争にまで深化したのは,政府部内の不正と腐敗が次々と暴露され,ムガベに対する信頼感が失われたことに原因があります.とくに97年に発覚した軍人恩給の横領事件は,ムガベのもう一つの存在基盤である軍や兵士の離反をもたらしました.ゲリラ戦をともに闘った兵士たちが,支払われるべき給付金を求めて大統領官邸を包囲するまでに至りました.

 こうしたなかでムガペはコンゴ派兵を決定しました.将兵1万の派遣は,1日あたり100万ドルの出費となります.この派兵をめぐって,ムガベと野党MDCの対立は抜き差しならないところまで行ってしまいました.

 そして今年初め,大統領選挙を前に突如ムガベが土地占拠を煽り始めたというのが,ことの経過です.そしてこれまで政治の表舞台に立たなかった白人たちが,公然と与党を支持し始めたことで,ジンバブエ情勢は爆発寸前の情況を迎えました.ムガベは野党指導者が「白人の人種差別主義者」と共謀していると非難し,攻撃を加えています.

イギリスの責任

 この経過からも分かるように,本来農地改革問題とムガベの失政とはレベルの違う話です.土地問題は独立運動と革命闘争にとって最も本質的な問題であり,ただそれが先延ばしされてきただけです.そして,農地改革の実現をサボってきた最大の犯人は,旧宗主国であるイギリスです.

 この国にとって,ムガペであろうと他のムガベであろうと,主要な問題ではありません.率直に言って,野党が勝利したとしても,今よりよい情況になるとは考えにくいものがあります.特に野党の運動が白人農園主と組んだことで,ますます複雑化しています.

 まず土地問題と大統領選挙とはきちっと分けるべきでしょう.そしてムガベは農地改革の全体像を明らかにすべきでしょう.そして,もしムガベが農地改革を断行する決意を持ったのなら,急いで英国政府、白人農場主と土地再分配問題を話し合うべきでしょう.

 ザンビア(元の北ローデシア)のカウンダ元大統領は語っています.

「いまジンバブエに残ったのは,貧困と病気に苦しむ住民,膨大な対外債務で破産寸前の国家・政府,そして相も変わらず可耕地のほとんどを支配する白人地主である.ムガペと黒人は辛抱強く,礼儀正しく待ったが,イギリスと白人たちはそれを無視しつづけたのである.だから,ムガベと民衆は怒り始めたのだ」

追記(7月)

 ジンバブエ総選挙が実施されました.反政府活動家多数が暗殺されるという緊迫した事態の下での選挙でしたが,MDCが大幅に躍進,ZANUとほぼ同数の議席を獲得しました.おそらくまともな投票と開票がおこなわれていれば,MDCの圧勝だったでしょう.

 いずれにせよ,これは前哨戦で,問題は2年後の大統領選です.「それまで,形だけでも議会制民主主義が持つかどうか」すらも,たぶんに疑問ですが,このまま行けば,さらに大変なことになりそうな,イヤな予感です.

 

 スーダンの最近の動きについて

 昨年12月の権力内のクーデター以来,スーダンに新しい変化が生まれています.原理派の中心で国会議長だったトラビを追放して以来,バシル大統領は一連の和解路線を打ち出しています.

 バシルは軍部の出身で,原理主義者のトラビと組んでクーデターを起こし,権力の座につきました.しかし世界の原理派の中でももっとも頑迷といわれたトラビとのあいだに,しだいに亀裂が生まれてきていました.今回の権力移動は,トラビら保守派の巻き返しに対し軍内主流派が拒否反応を示したものと見られます.

 全権を掌握したバシルは,まず民政時代の首相アル・マハディと,民族和解への話し合いを開始すると発表.内戦が続く南部問題では国家の分離も含め「南部住民の意思決定を尊重する」との見解を明らかにしました.

 スーダンの内戦では50万人が殺され,100万人が餓死し,450万人が流浪の民となっています.ほとんど知られていないが,スーダン内戦こそはアフリカの数ある内戦のなかでも最も悲惨なもののひとつです.そしてイスラムの誇りを汚した,原理主義者の歴史的失敗として名の残る戦争でしょう.

内戦に至る歴史的経過

 スーダンはもともとアラブ世界の北部と,黒人の南部が英国によって植民地化された国です.二つの勢力の争いは独立この方ずっと続いてきました.この闘いをイスラム対他宗教の対立と見るのは正しくありません.たしかにアラブ世界はすべてイスラム世界ですが,南部の黒人もその半分がイスラムです.

 スーダンは他のアフリカ諸国より一歩早く,56年に独立しています.その後一時進歩的傾向の政権が成立しますが,69年にヌメイリ将軍がクーデターに成功すると,徐々に独裁色を強めていきます.

 ヌメイリは労働運動や共産党を弾圧し,これと対抗するためにイスラム教会の力を利用するようになります.左翼系の活動家は南部に逃れ,黒人勢力との共闘を求めました.

 83年頃から,ヌメイリは南部に対する弾圧を開始しました.これに対し南部住民の一部はジョン・ガラン大佐の指揮の下,スーダン人民解放軍(SPLA)を結成し抵抗を続けます.この時点ではまだイスラム対キリスト教という図式ではなく,ヌメイリ独裁と南スーダン人民を先頭とする反ヌメイリ派の闘争でした.

 SPLAを支援していたのはエチオピアのメンギスツ政権,さらにその背後にいるキューバやソ連でした.いっぽう,その頃イランはイラクとの戦争で手一杯で,スーダン政府を支援する余裕はありませんでした.

 この図式ではとてもヌメイリは勝てません.戦争による経済の疲弊,あいつぐ飢饉のなかでヌメイリ政権は崩壊していきます.

原理派政権と内戦の泥沼化

 一時,民政復帰への希望も出たスーダンでしたが,89年,ふたたびクーデターが発生し,ヌメイリよりさらにひどいバシル政権が誕生します.一般には原理派といわれていますが,実際はヌメイリのイスラム保護政策の下で権力内部に浸透した官僚的聖職者が実体のようです.そしてバシル政権の下,「ジハード」として南部制圧を煽ったのがトラビ国会議長でした.

 公明党を利用して強硬路線を突っ走った自民党の野中に代わって,池田大作本人が出てきたようなものです.彼らは厳格なシャリーア法を導入し,行政機構の隅々まで自派支持者で固めました.そして南部住民に対する弾圧を「聖戦」として煽動したのです.

 彼らからすれば,ソ連が崩壊,エチオピアの軍事政権が弱体化した今がチャンスと踏んだのでしょう.イラクとの戦争を終えたイランの支援もあてにできるし,アフガン帰りのムジャヒディン(聖戦士)もゴロゴロしています.

 しかし,国内で孤立していたのは南部人民ではなく,自分たち自身だということには気づきませんでした.89年,国民民主同盟が結成されます.これにはウンマ党、民主統一党、共産党、労組組織,スーダン国軍合法司令部、SPLAなどが結集しました.

 国民民主同盟は,南部住民の自決権を全面的に承認するいっぽう,シャリーアを根本から否定して厳格な政教分離を貫くことを決議しました.

 十年近い泥沼の闘いが続きました.98年にはふたたび飢餓が襲いました.両者ともに力を消耗し尽くしました.SPLAがあてにしていた周辺黒人諸国の支援は,それぞれのお家の事情で先細りになりました.代わってイランとの対決を進めるCIAが支援に乗り出しました.

 SPLAは依然,南部での戦いを続けています.しかしガランはただの戦争屋との見方が一般的で,これまでガランを支援してきた周辺諸国も,今ではガランの山賊行為に苦しめられています.今後スーダンと周辺諸国との和解が進めば,SPLAはいっそう孤立を深めることになるでしょう.

 いずれが勝利したとしてもその先の見通しは明るくはありません.しかし,とりあえずは戦闘を止めて平和と取り戻す以外,再建の道はないでしょう.

 

 ルワンダ→ブルンジ→コンゴ

キサンガニにおける奇妙な衝突

 ここもシュールな世界です.舞台はコンゴ東部の主要都市キサンガニ.この町の飛行場でなんとルアンダ軍とウガンダ軍が銃撃戦を展開したのです.なぜそうなるかというと,ルワンダとウガンダからそれぞれ,軍隊がコンゴに侵入し,そのまま居座っているのです.ますます分からないという人もいるでしょう.とにかくそうなのです.

 なぜ侵入したかというと,フツ族の逆襲に備えて自国を守るための派兵ということだそうです.それだと国境を接しているルワンダの場合はまだ分かりますが,ウガンダはいったいどうして,コンゴにいるのでしょう.

 実は,自国の防衛など真っ赤なうそ.コンゴで採れるダイヤモンドや金などが目的です.それが証拠に,コンゴの重要都市に侵入しているのに,コンゴの政府は何も対抗していません.現に自国に侵入している相手にさえ反撃できないようなコンゴ軍が,どうしてルワンダやウガンダにまで手を伸ばせるでしょうか.

 キサンガニのあたりは東南部のカタンガ州と並んで地下資源の豊富なところです.彼らはこの地下資源,とりわけダイヤを狙っているのです.キサンガニ空港からは、ルワンダとウガンダに向け貨物便が飛び立っていますが、その積荷の多くはダイヤだといわれます.

ルワンダ問題のおさらい

 ルワンダ内戦での死者はツチ族が100万人,人口800万の約半数が国外へ脱出しました.あらたに政権を握ったルワンダ愛国戦線(RPF)は,フツ族の帰順を呼びかけ,ツチ族兵士へ民間人に対する報復を禁じました.96年にはフツ族民間人を殺害した兵士千名以上が逮捕されています.

 しかし,ツチ族虐殺は旧軍兵士のみがおこなったわけではありません.「民間人」の多くも「隣人殺し」に参加しています.すでに50万人以上のフツ人が,大虐殺に加担したとして逮捕されています.虐殺にかかわった人間の数は,おそらく百万を下らないでしょう.ほんとうに恐ろしいのは,殺された人の数よりも殺した側の人間の多さです.この集団的狂気は,法や政治の枠をはるかに越えたものです.従って報復と処刑との境界はかなりあいまいなものにならざるを得ません.

 ここでルワンダの歴史を簡単におさら「しておきましょう.ビクトリア湖からタンガニーカ湖にかけての大地溝地帯は,人類発祥の地として知られています.もともとピグミー族として知られるトゥワ人が住んでいましたが,11世紀頃,バンツー系農耕民のフツ人がこの地に入りました.その後115世紀には,ケニアのマサヤ族と近いツチ族がこの地に侵入し,王国を形成します.

 1890年,ウガンダに侵入したドイツは,三国を併せドイツ領東アフリカとして支配しました.第一次大戦でのドイツの敗北に伴い,ルワンダ・ブルンジはベルギーの委任統治領となります.こうして1961年の独立までに,白人=ツチ族カイライ政権=フツ族民衆という三層構造が形成されていきました.

 独立運動を担ったのはフツ族農民でした.独立と同時にツチ族政権は倒され,フツ族のカイバンダ大統領が選出されました.この際にもフツ族による大量虐殺があり,20万人のツチ族が国外に逃れています.

 余談になりますが,この頃の日本では「アフリカ・ブーム」でした.渥美清の映画でケニアの大草原が紹介されたり,伊谷純一郎氏の「ゴリラとピグミーの森で」が出版されたりして,当時高校生の私は人類学者にあこがれたものでした.なかでも印象に残ったのが,中公新書で出された「ルワンダ中央銀行総裁日記」で,当時の新興アフリカ諸国の背伸びした急進的な政策に何となくそぐわないものを感じていた私には,すかっとした爽快感を残す名著でした.

 この本のなかで印象的だったのは,ルワンダの民衆の温和さです.カイバンダ大統領もどこの国とも敢えてことを構えず,平和に暮らしたいと考えていました.そしてツチ族が政権を握る隣のブルンジとも仲良くやっていきたいと述べていました.(30年も前の話しなので記憶は定かではありませんが)

 ルワンダが,というよりアフリカ大陸全体が長期の景気後退に入ったのは,70年代からです.この頃から,何もかにも悪くなりました.人々の気持ちも殺伐としてきました.

 72年に隣国ブルンジで,ツチ族政権が15万人のフツ人を虐殺するという事件が起こりました.これに伴いルワンダでも両民族の対立が激化します.そして軍隊がクーデターを起こし,ハビャリマナ将軍が大統領に就任します.

 ハビャリマナは94年に飛行機事故で死亡するまで,20年余りにわたって独裁を続け,ツチ族への抑圧を強めました.国外に逃れたツチ族はルワンダ愛国戦線(FRP)を結成しますが,この組織はフツ族の反独裁派も加わりルワンダの反政府勢ヘを統合したものでした.ルワンダはもともと一つの王国として統合されており,フツ系であろうとツチ系住民であろうとルワンダ人であったのです.ここは他のアフリカ諸国の内戦とは違うところです.

 愛国戦線は90年からルワンダ領内に進攻して武装闘争を開始しますが,フツ人穏健派も独裁体制を批判し,ハビャリマナと対立するようになります.そして93年には和平が成立し,民主化へ向けて一歩を踏み出そうとしていたのです.

 その時またも,隣のブルンジで,ツチ族によるフツ族への攻撃が始まりました.ルワンダの軍内外の極右派は,これを利用して独裁政権の維持を図りました.

そして大量虐殺

 94年4月,ハビャリマナ大統領を乗せた航空機が撃墜されました.軍部はこれを愛国戦線の仕業とし,ただちに攻撃を開始しました.真相は不明ですが,当時の愛国戦線側にはハビャリマナを殺すことで得するものは何もありませんでした.

 この闘いは,あっけないものでした.戦闘開始後,まもなく政府軍は総崩れに陥り,三ヶ月後には首都を逃げ出します.愛国戦線はなおも軍を追いつめ,国外に放逐してしまいます.

 問題はその後のことです.政府軍とともになんと200万人以上のフツ族が国外に脱出したのです.一体どうしたことかと,世界が注目しました.まもなく,逃げるには逃げるなりの理由があったことがはっきりしてきました.フツ族がツチ族百万人を虐殺していたのです.

 国際対応もおかしなものでした.ルワンダの国家再建に協力し,難民の帰還に努力すべきなのが,ひたすら難民キャンプの惨状ばかりを報道し,そこに援助を集中させたのです.

 カンボジアの時もそうでしたが,国外に亡命した人たちの救援に多くの国際団体が参加しました.援助総額は10億ドルを越えるといいます.しかし,結果としてこの「人道支援」はフツ族の旧軍兵士を力づけ,ふたたび内戦を始める手助けとなったことも間違いありません.

 もし人道支援をおこなうとすれば,難民キャンプよりはルワンダ本国の受け入れ体制強化に重点を置くべきではなかったでしょうか?

 難民キャンプへの援助が,結果として内戦を長引かせ,さらに犠牲者を増やしたのは,かつてのポルポトの教訓が生かされていないと言えます.

ブルンジの内戦

 ルワンダと瓜二つの人口構成で,なぜ別の国になったのかは分かりませんが,フツとツチの対立は,ルワンダよりはるかに強烈で,支配者であるツチの抑圧的姿勢も強烈です.

 62年の独立後わずか4年でCブルンジは早くも軍事独裁政権に移行しました.72年にはフツ族が反乱を起こし,ツチ人1万人を殺害しました.ツチ族政権は,その報復として10万人虐殺で応えました.

 87年,ようやく民族和解を目指す政権が成立し,この政権の下に初の大統領選挙が行われました.ところが,選挙を実施したツチ族中心の政権が敗れてしまいます.代わりに大統領に就任したのはフツ族のヌダダイエでした.

 これを不服とするツチ族の一派は,ただちにクーデターを敢行.ヌダダイエを処刑してしまいます.その後はおさだまりの内戦です.この内戦でさらに25万人の人が殺されました.

 1996年,軍部はブヨヤをふたたび大統領に指名.和平への道を探ろうとしています.しかしツチ族が政権に固執し,多数派のフツ族を武力により支配する姿勢を続ける限り,真の和平への道は遠いといわざるを得ないでしょう.

 シエラ・レオネとリベリア

にぎやかな顔ぶれ

 この所にわかにシエラレオネという国の名前がマスコミをにぎわせています.国連の平和維持軍が数百人の単位で捕まって,それがリベリアのテイラー大統領の口利きで保護されたような保護されないような,何とも分かりにくい構図になっています.

 シエラレオネの内戦は今に始まったことではなく,もう十年も続いています.この間に数万の民衆が犠牲となり,その数倍の人々が国を逃れ難民となっています.

 この戦争には,かたやイスラム原理主義やカダフィも絡み,一方で世界一のダイアモンド会社デビアスや,その傭兵であるエグゼクティブ・カンパニーという集団も絡み,この地域の派遣をうかがうナイジェリアが兵を送り,ロシアのマフィアがダイアモンドと引き換えに武器を密輸し,もちろん我らがCIAも「民主主義のために」がんばっています.かつておなじみののキューバ兵と麻薬カルテルこそいないものの,フォーサイスのファンでなくとも胸おどる豪華絢爛の顔ぶれです.

 おまけに怪奇趣味にも事欠きません.戦闘の際は素っ裸になって魔法の水を塗って戦う勇士,しゃれこうべを魔よけに並べる部隊,敵兵の肝を食って力をいただく儀式など,ウソか本当かは知らないが,まことしやかに流される情報が後を立ちません.

 これらのにぎやかな虚飾を取り除いて事実を見つめるためには,歴史的な視点が必要でしょう.その際,兄弟国ともいうべきリベリアの歴史とセットで見ておくことが有用です.

 リベリア・シエラレオネ内戦の歴史的背景

リベリア内戦

 リベリアは1847年に独立を実現した国です.1980年までは比較的安定した政権が続いていました.ところがサミュエル・ドウという軍曹がクーデターを起こして国を乗っ取ってしまってから,とたんにおかしくなりました.ドウは閣僚全員を処刑した後,その睾丸を切り取り,町中に触れまわったといいます.

 ドウの独裁に対しチャールズ・テイラーという軍人が反乱を起こし,リベリア国民愛国戦線(NPLF)を結成しました.名前だけ聞けばサンディニスタのようですが,中味はただのギャング集団で,テイラーは公金横領で刑務所に入っていたのを脱獄したという経歴の持ち主です.ドウもこうもありません.

 テイラーの部隊は首都モンロビアを包囲しますが,隣国の介入もあって陥落させるには至りません.こうして十年間も内戦が続くことになりました.

 人口250万のこの国では,内戦のなかで20万人が殺され,3人に一人が国外難民となりました.97年7月,テイラーが権力を掌握するにおよんでようやくこの国にも平和が訪れつつあります.

 ところがリベリアの内戦がようやく終わりを告げようとする頃,今度は西隣のシエラレオネで内戦が発生しました.この国もリベリアと同じような経歴を持つ国で,リベリアがアメリカの解放奴隷の国だったのに対し,シエラレオネはイギリスの解放奴隷の国でした.

 違うところは二つあります.一つはこの国が世界有数のダイアモンド産地だということ,もう一つはブラック・イスラムが人口のかなりの比重を占めていることです.したがってシエラレオネ内戦は,世界のダイア市場を独占するデビアス社とリビアのミスター・イスラム,カダフィの闘いということもできます.

シエラレオネ内戦の開始

 92年,ストラッサーという将校がクーデターで実権を掌握すると,これに反対する勢力が革命統一戦線(RUF)を結成し反乱を開始しました.このRUFもあやしげな組織で,リベリアのテイラー軍とは義兄弟の関係.指導者のサンコー議長が元写真師というのも何か魔術的で,いわくありげです.RUFは,イスラム集団ということでカダフィから軍事援助を受け,急速に勢力を拡大していきました.

 96年,反ストラッサー派によるクーデターが成功,民政移管が行なわれました.新政府はRUFと交渉し,一旦は和平に至ります.しかしサンコーは政府の一員という地位に満足できませんでした.97年,息のかかった軍人を扇動し,クーデターに成功します.

ナイジェリアの介入

 その後、情勢は一段と複雑になりまキ.サンコーの息のかかった軍政に対し,民主主義を守るという大義名分を掲げ,西アフリカ諸国平和維持軍(ECOMOG)が武力介入したのです.ナイジェリア軍を中心とするECOMOGは首都を奪還し,RUFのサンコー議長は投獄され,ふたたび民政が実現しました.

 しかし民政とはいうものの,実態はナイジェリア軍のカイライ政府に過ぎません.そしてナイジェリアの狙いがダイヤにあることも間違いありません.ナイジェリア兵の蛮行も横行しているようです.このカイライ政府をOAUや国連までが支持していることも,いっそう問題を複雑化しています.

 山間部に引っ込んだRUFは抵抗を継続,ますます野蛮な集団に変質していきます.とくに子供に銃を持たせ,残虐な住民みな殺しを実行させていることには,国際的な非難が集中しています.途中,停戦が成立したこともありますが,すぐに破られました.そして現在にいるまで内戦状態が続いているのです.

デビアスとエグゼクティブ・アウトカム

 これだけでもすでに十分すぎるくらい複雑なのですが,RUFがダイアモンド鉱山を占拠したことから,さらに話しがややこしくなりました.

 ロシアやウクライナの宝石商が話に絡んできました.彼らは,ダイヤの代価に旧ソ連軍の武器を売りこみました.最新鋭の武器が,洪水の如くRUFに流入しました.RUFのスポンサーであるリベリアのテイラー将軍も、早速このビジネスに加わりました.リビアのカダフィがうまい汁を吸ったことはいうまでもありません.

 鉱山の持ち主デビアス社は,南アの傭兵会社エグゼクティブ・アウトカムズ(EO)に出動を依頼しました.形の上ではシエラレオネ政府の依頼ということになっていますが,連中にそんなカネはありません.

 EOの派遣した「ワイルド・ギース」たちは,武装ヘリ20機などの近代兵器によりRUFを追い出してしまいました.傭兵への報酬は、ダイヤモ ンドの採掘権でした.

 彼らにとっては鉱山こそが大事なのであって,政府軍とサンコーのRUFのどちらが政権を執ろうとかまいません.とはいっても,サンコーに政権を握られると,これまでの経過からいえばいろいろ困ることが出てくるでしょうが.

「ダイアモンドに目がくらみ…」

 シエラレオネの内戦は,一言で言えば「ダイアモンド戦争」です.かつてカンボジアでも,ポルポト派がルビーの密輸で軍資金を獲得していましたが,ダイヤの価値はその比ではありません.

 ダイアモンドの市場は極めて閉鎖的な特殊社会で,ユダヤ系のデビアス社がC事実上,取引を独占していました.アメリカは独占禁止法に違反しているとして,デビアス社の営業を禁止していますが,オッペンハイマー会長は「ダイヤの高価さは、物質としての価値ではなく、人々の心理的な満足感に支えられている」と涼しい顔です.

 デビアスの尊大な態度の背景には,世界のダイヤモンドの75%をしめるアフリカのダイアモンド鉱山を完全に抑えている,という自信がありました.ところがそのアフリカで内戦が続き、デビアスの地位を脅かしています.

 現在,世界のダイヤモンド流通の10-15%は、アフリカの戦闘地域で非合法的に採掘されたものだといわれます.アメリカ国務省の概算では、その額は年間5000―7000億円に達します.

 なかでもひどいのがシエラレオネです.政府統計では8500カラットしか輸出したことになっていませんが,実際には年に77万カラットといわれるシエラレオネのダイヤが市場に流入しているといわれます.これではデビアスが実力行使したくなる理由も分かります.

シエラレオネ,豊かな国,貧しい民衆

 シエラレオネの人口は500万人,北海道とほぼ同じです.平均寿命は41才で,これは世界一位です.小児死亡率は二位です.平均年収は145ドルで,低いほうから数えて世界第六位ですが,ダイアモンド関連の人を除けば,間違いなく首位を争うでしょう.

 隣のリベリアでは,とかくの噂のあるテイラー将軍ですが,彼が大統領になった結果,戦火が消えたことも間違いありません.個人的見解ですが,国連やOAUもふくめ,例え人道的理由であっても,少なくとも軍事的な干渉はしないことが,結局一番の解決策だと思うのですが,いかがでしょうか.