各国情勢 〜アジア編〜

 

東アジア



 韓 国

 98年,(筆者が)韓国を訪れたときは「IMF危機」の真っ最中でした.ソウルの目抜き通りも空き店が目立ち,工事を中止した現場など不景気が目立ちました.しかし,それが夢だったかのように,いま韓国は好景気に沸いています.

 今年始めの鉱工業生産は昨年比3割増という驚異的なものでした.長期不況から未曾有の好景気への突然の転換は,さまざまな社会的影響をもたらしました.

 「IMF危機」のあいだに,韓国の五大財閥(現代、大宇、三星、LG、SK)の多くが、苦境に陥りました.以前から財閥システムを改める必要があると考えていた金大中大統領は,この機会を利用して経済構造の近代化に動きました.

 最大の財閥である現代は、グループ企業を79社から26社に減らしました。LGは半導体部門を三星に,三星は建設機械部門をボルボに売却しました.多くの中小財閥が解体されました.

 ところが突然,IMFはこれまでの高金利・引き締め政策をあらためました.16%だった公定金利は一気に5%にまで下がりました.インドネシアの失敗に懲りたIMFは,構造改革への興味を失いました.

 気息奄々だった財閥が息を吹き返しました.折りからの米国の好景気に乗って,輸出にドライブがかかります.逆に金大中の経済改革は目標を失いました.

 こうしたなかで昨年11月,総選挙が実施されました.財閥からの巻き返しも強まり,金大中に対するネガティブ・キャンペーンも激しくなりました.

 選挙は,その結果だけを見れば,保守派の引き続く勝利,相変わらずの地域主義,金権選挙となりました.金大中の新世紀民主党は改選議席を大幅に伸ばしましたが、ハンナラ党をしのぐには至りませんでした.しかし韓国の選挙が小選挙区制であることを考えれば,得票の推移にも注目しなければなりません.とくにソウルで民主党が躍進を遂げたことは,大事なポイントでしょう.



 北朝鮮

 南北会談実現に至る政治的背景には,内外二つの要因が指摘されています.一つはようやく金正日を指導者とする権力基盤が安定したということです.そのために政策に柔軟性が生まれる余地ができたといわれます.

 もうひとつは,「強腰一辺倒の外交ではさらに国際的孤立を深めるばかりだ」と,政権中枢が自覚したのではないか,といわれています.米国内タカ派を代表するアーミテージ元国防長官は,以下のように観測しています.

 94年の核疑惑以来ここ数年,北朝鮮は脅威をちらつかせることにより、米国などから金銭的援助や食糧援助を引き出す外交方針をとってきた.しかし最近,北朝鮮はこのようなやり方がいつまでも続けられるものではないことを自覚し始めたようだ.

 北朝鮮は,ミサイル発射実験が国際的に否定的に受け止められることを認識し始めており、その認識を非公式に示唆している。

 アーミテージは次のように結論します.

 北朝鮮が挑発的作戦をおこなうほど,金大中の「太陽政策」の正しさをますます浮き立たせるという皮肉な結果になっている.

 しかし最も皮肉なのは,「強腰一辺倒の外交で,さらに国際的孤立を深める」日本政府の対北朝鮮政策ではないでしょうか?



 台 湾

 台湾でこの春総統選がたたかわれ,政治の刷新を求める陳水扁候補が勝利しました.

 注意しなければならないのは,選挙での争点が中国との統一問題を中心としたものではなかったということです.与党の李登輝総統でさえも「国民党は外来政権」というくらいで,少なくとも台湾が主体となって「中国」を統一しようなどという考えは,すでに過去のものとなっています.

 陳水扁の当選の影には,長年続いた国民党独裁政権への不満がありました.国民党は「世界で最も豊かな政党」といわれてきました。しかしそれは,国民党が国家の機関と政党組織を同一化させ,私腹を肥やしてきた結果でした.

 1945年に台湾を接収した国民党は、日本が残した公的資産をもとでに事業や投資で資産を拡大してきました.それは本来「中華民国」政府が保有すべきものでしたが,当時の混乱に乗じて党の私的財産にしてしまったのです.

 腐敗した独裁政権に代わって,民衆の立場に立つ政権を実現しようとする陳水扁らは,進歩的な勢力と考えられます.現に若者のなかでの支持は圧倒的かつ熱狂的でした.

 「一国二制度」を標榜し,世界の進歩勢力との連帯を謳う中国にとって,新政権をそれにふさわしく正当に評価することは,東アジアの安定と発展のためにも望まれるところです.

 

 

東南アジア

 

 フィリピン 

 アセアン諸国の景気が回復に向かうなかで,フィリピンだけが取り残されています.通貨の国際的信用は失墜し,為替相場は依然下げ止まる兆しがみえません.この国の経済困難は構造的です.消費を牽引する中間所得層が育成されず,貧困対策も長年放置されたままです.貧富の差の激しさと,金持ち階級の無責任ぶりは,ラテン的なものを感じます.

 国民の期待を担って登場した筈のエストラーダ大統領ですが,側近の株式不正取引疑惑が浮上するなど評判は芳しくありません.中味を知ると,なるほどとうなずけます.

 側近の経営していたのは賭博会社です.しかも公営ときていますから,まさに構造の問題です.この公営賭博会社の株価が乱高下しました.当然,株価操作の疑いが濃厚です.政府の業務倫理委員会が調査に乗りだし,かなり明確な証拠をつかみました.しかしそれにもかかわらず、最終的には処分は見送られました.これを見た海外投資家が逃げ出しを図り,ただでさえ厳しい金融情勢がいっそう落ち込んでいます.

 フィリピンの社会を「三つのキーワード」で語るとすれば,貧困,腐敗,そして内戦です.今年になってふたたびモロ・イスラム解放戦線(MILF)が攻撃を強めています.政府軍はミンダナオ島の3つの州で反撃に出ています.特にMILF側の拠点アブバカルの山麓で激しい戦闘が続いており,すでに避難民は12万人を超えたといわれます.

 96年9月に,政府とモロ民族解放戦線(MNLF)とのあいだに和平条約が締結されました.しかし和平に不満を持つ急進派は,その後もモロ・イスラム解放戦線(MILF)を結成し武装闘争を繰り広げています.

 このほかミンダナオでは,ホメイニの薫陶を受けたというアブ・サラフの組織するカルト的ゲリラ集団アブ・サヤフもテロ・誘拐などの活動を展開しています.彼らのターゲットは小学校であったり,カトリック教会の聖職者であったりと,倫理観がおよそ感じられません.

 マニラ北部では,依然,新人民軍(NPA)がテロ活動を続けています.組織人員はいまや5千人程度とされ,誘拐と身代金獲得が今や主要な活動となっています.NPAのコマンド部隊「アレックス・ボヤンカオ旅団」は,民族浄化と称して中国系資産家の殺害をくり返しています.



 ブーゲンビル

 ブーゲンビルは,昔太平洋戦争の激戦地で,ラバウルと聞けば年輩の方にはなつかしい名前かも知れません.

 牧歌的だったこの島も,1964年にパングナ銅鉱山が発見されてから,厳しい階級闘争に晒されるようになりました.銅山の利益のほとんどはオーストラリアに持ち去られ,島に残されたものは公害だけ.これでは島民が頭に来るのも無理はありません.

 87年,島の住民が起ち上がると,オーストラリアの支援を受けた政府軍は,残虐な弾圧で応えました.反対派の一部はブーゲンビル革命軍を結成し,武装闘争を開始しました.この紛争で1万人近い民間人が殺害されたといわれます.

 97年,反乱に業を煮やした政府は,3,600万ドルをつぎ込んで有名な南アの傭兵部隊,エグゼクティブ・アウトカム社を雇いました.ところがこれに激怒したのはゲリラではなく政府軍でした.軍隊は傭兵部隊を監禁し国外退去を迫りました.このあと政府軍とゲリラ軍とのあいだの緊張は緩和し,両者の並立状況が続いています.



 インドネシア

大統領選挙の評価

 ハビビ前大統領は,もともとがスハルトの身内であり,その腐敗政治と深く関わっていた人物です.与党ゴルカル党からも批判が出る始末で,選挙戦からの撤退を余儀なくされました.ウィラント国軍司令官に至っては,長年続いたインドネシアの恐怖政治を象徴する人物であり,とても新生インドネシアの舵取りを任せるわけには行きません.

 インドネシア国会(国民協議会)は,スハルト独裁時代のシステムを引き継いでおり,軍隊にも無条件で38の議席が割り当てられています.軍や旧与党のゴルカルは,さすがにハビビやウィラントを擁立するわけには行きませんでしたが,改革の象徴であるメガワティを大統領にするのには抵抗しました.

 そこで改革派のなかでは最も穏健な国民覚醒党のワヒド議長の擁立に回りました.こうして議会内では第四党のワヒドが,メガワティを抑え大統領に就任したのです.

 ところが副大統領選挙では,ワヒド大統領がメガワティを副大統領に指名しました.そしてアミン・ライス国会議長とも手を組んで,最大の難関である国軍の発言権制限に乗り出したのです.

 ワヒドの決断力は,相当なものでした.自らはジュネーブに拠点を置いて,欧米諸国の世論を巧みに用い,ウィラント糾弾のキャンペーンを展開.息づまる駆け引きの後,ついにウィラントを国軍最高司令官の地位から引きずり降ろしたのです.

 俄然,世界の目はワヒドの力に注目するようになりました.ついでワヒドはアチェ問題の解決に自ら乗りだし,軍部の妨害を振り切って,GAMとの和平協定に成功します.そして東チモールに対しても過去の誤りを認め,現地に赴いて謝罪することまでやってのけます.東チモールはインドネシア固有の領土だと主張していたメガワティに比べ,はるかにきちっとした対応ぶりです.

 さらに,かつて百万人が虐殺され,30年以上も非合法状態にあったインドネシア共産党の合法活動を認めます(議会での承認はまだ得られていない).このところイスラムといえば,シャリアとか,無差別テロとかを連想する風潮が広がっていただけに,ワヒドの柔軟な姿勢は新鮮な衝撃を与えてくれました.

 改革運動のシンボルではあったが,たぶんに政治的力量に疑問が残るメガワティではなく,単純に正義を重んじ,そのために体を張るワヒドが大統領になったことは,インドネシアにとって最良の選択だったのかも知れません.

 それにしても,まず何といっても経済・財政危機の克服が焦眉の課題です.失業者が一千万人を超え、対外債務が一千億ドルを超える状況は基本的には改善されていません.



アチェ問題での前進

 インドネシア政府と「自由アチェ運動」(GAM)が,ジュネーブで会談.両者は停戦実行委員会の設立などを盛り込んだ停戦合意の覚書に調印しました。1976年にGAMが武装闘争を開始して以来、政府との和平合意は初めてのことです.しかし軍部やGAM内武闘派の動きとも相まって,情勢は依然流動的です.

 GAMの立場は明確です.「我々は戦闘を望んでおらず、合意は誠実に守る」とする一方で、「最終的にアチェ州の独立を目指すのが我々の目標であることに変わりはない」と述べています.

 アチェはインドネシアの独立闘争において,その先頭となった栄光ある州です.しかし今では天然ガス,原油、木材などの豊富な資源が,ジャカルタ政府の収奪の対象となっています.アチェ特別州の天然資源は年間31兆ルピアの富をもたらしています.これに対して交付される地方予算は1千500億ルピア.還元率は1%未満ということになります.

 

南アジア

 

 パキスタン

 パキスタンは昨年4月のカシミール進攻の失敗,そして軍事クーデターによるシャリフ政権の崩壊と,激動が続いています.

カシミール問題の背景

 地図を見れば分かるようにパキスタンの主要都市のほとんどはインド国境近くに存在しています.このことは,1947年の印パ分離の際,辺境部がパキスタンに割り当てられたことと関係しています.

 インドが戦後独立した際,イスラム教徒の分離派は東西パキスタンを建国しました.その際,住民の多数がヒンズーかイスラムなのかよって,その地方の帰属が決められました.カシミールの住民の多くはイスラム教徒でしたから,パキスタンに帰属すべきだったのかも知れません.

 しかし当時カシミールを支配していた藩王(マハラジャ)がヒンズー教徒で,その希望に基づいてインドに帰属することになりました.これに対し,パキスタンは住民投票による帰属決定を訴えましたが,インド側には受け入れられませんでした.パキスタンの分離とともに,はやくも第齊气Jシミール戦争が開始されています.

 これだけだとパキスタン側に理がありそうですが,インドの側はイスラム教徒だからといって,インドの国土から排除する意思はなかったことも見ておかなくてはなりません.

 その後65年の第二次紛争と71年の第三次紛争が続き,さらに中国もカシミール北部の領有権を主張して介入するなど,常に南アジア地域の紛争の火種となって来ました.現在はカシミールのジャンムーとアザドのあいだに暫定境界線が引かれています.しかしインド側に残されたイスラム教徒の不満は治まらず,より広範な自治を求めて闘いが続いています.

 問題はパキスタンが介入し,紛争を複雑なものにしていることです.パキスタンの支援を受けた武装ゲリラが抵抗を続け,多くの市民が犠牲となっています.

 99年4月、パキスタン軍の訓練を受けた武装勢力(ジャンムー・カシミール解放戦線,聖戦評議会など)が,カシミール領内に攻め込みました.折りから排外主義を唱える人民党が政権を握ったインドは,逆にこれを好機と見て猛反撃に出ました.

 両国とも核保有国であるだけに,カシミールでの衝突は核戦争へ発展しかねません.紛争の激化を懸念する声が,世界に広がりました.この国際世論を背景にクリントンが仲介に入りました.クリントンの提案は,経済支援を見返りに,パキスタンに撤退を求めるものでした.

 国際世論の支持が得られない上に,闘いも惨憺たる負け戦とあっては,シャリフ首相もこれを了承せざるを得ません.しかし戦争を煽られた国民が,今度は簡単に撤退を認めるのも容易な話ではありません.

 シャリフはこの苦境を,軍部の敗戦責任を追及することで逃れようと図りました.彼の頭には,これを機会に軍部の力を削ぎ,自らの地位を安泰なものにしようという計算も働いていました.



クーデターの背景

 しかし,敗北の責任を言うならば,まずなによりもシャリフ政権自身の極度の腐敗にあります.

 パキスタンでは,実に銀行の貸し出し残高の3割が焦げ付いているといわれます.その額は日本円で約4000億円相当といいますから,すさまじいものです.

 借りた金を返さないのは,もっぱら前政権のトップ集団だったようです.全部でわずか1000人あまりのトップエリートが,その金を猫ばばしてしまった計算になります.なかでもシャリフ本人とその一族だけで,不良債権全額の25%を占めています.

 シャリフのやり口を知ると唖然とします.彼は首相権限を利用して国有銀行に圧力をかけ,自分の一族に融資をおこないました.それも無担保という条件でした.一族は,その金を欧米の銀行口座に移して隠したり、豪華な邸宅を建てたりしていたそうです.借りた金はほとんど返していません.

 銀行が貸した金は返ってこないし、税金もきちんと集められないとなれば、国の経済がうまく回るわけがありません。パキスタンは海外から借りた3兆円強の借金を返せず、破綻寸前の状態となっています.

 一般的には軍事クーデターは民主主義の破壊であり,容認することのできない行為です.ただ今回は,シャリフが勝手に軍の最高司令官を首にするという,憲政の常道を踏み外した暴挙に対する対応という側面もあります.

 パキスタンは核大国ではありますが,われわれが想像する以上に貧しい国でもあります.国民所得は年間410ドルに過ぎず,全人口の3割が貧困線以下の生活を送っています.識字率も35%と低く,民主主義の基礎となる民度が圧倒的に不足しています.

 新政権は,今のところかなり多くの知識人も結集し,清潔・公正な政治の実現へと努力を積み重ねているようです.すこし経過を見る必要がありそうです.



 スリランカ

 スリランカでは83年に内戦が始まってからこれまでに5万人が命を失っています.76年に結成されたイーラムは,タミール人地区の完全独立を主張し83年から武装行動を開始しました.この時,政府が反タミール感情を煽ったため,各地でタミール人2千人が虐殺されました.これを機に内戦は本格化しました.

 94年,タミール人との和平を謳うクマラトゥンガ大統領が就任しました.新政府は北部諸州に完全な自治権を認める提案をおこない,和平に向けて動き出そうとしました.

 この時和平の道をふさいだのが軍部です.軍は政府の和平の動きを無視して,タミール人社会の中心地ジャフナ制圧作戦に出ました.政府軍は全力動員でジャフナの制圧に成功しました.しかし皮肉なことに,それはイーラム側の抵抗力が想像以上に強大であることを証明する結果となりました.

 96年7月,イーラム東部地域で反攻に出ました.5日間にわたる激戦の末,政府軍の要衝ムライティブ基地が陥落しました.その後イーラムは,コロンボでの激しいテロ活動と結合しながら陣地の拡大に成功しました.そしていまやタミール人居住区最大の町,ジャフナ奪回寸前の情況まで迫ってきました.(97年版「総会報告」を参照のこと)

 イーラムのやり方には,民間人も巻き込む爆弾テロなど問題も多いのですが,95年の和平に失敗し,力関係がここまで変わってしまった以上,完全独立をも念頭に置いた和平が打ち出される以外になくなってきたようです.



 アフガン

 タリバンがいまや国土の約80%を支配下に治め,実効支配をほぼ確立しました.しかしタリバン自身は否定しているものの,国連麻薬統制プログラム(UNDCP)の報告からも,彼らのヘロインへの関与は間違いなさそうです.

 タリバンはアヘンの原料となるケシ栽培を奨励し,これを武器調達の財源としているといわれます.アヘンはヘロインに精製された上で、中央アジア諸国やロシアを通じてヨーロッパに流れています.特に政治・社会の混乱が続く旧ソ連・東欧諸国が最大の消費国になっているようです.

 UNDCPの発表によれば,アフガンのアヘン生産量は推定4,500トンに達しました.これは昨年の約二倍の生産と言います.アフガンはぶっちぎりで世界最大の生産国になりました. ちなみに「黄金の三角地帯」,コロンビア、パキスタンの合計生産量が約1,500トンとされていますから,その差は圧倒的です.

* タリバンについては,「評論」のページにも掲載されています.

 

 イラン

 イランではハタミ大統領の開放・改革路線を支持する大多数の国民と,軍・警察などの暴力装置を握る原理派との角遂が,一段と激しさを増しています.今年おこなわれた総選挙ではハタミ支持派が圧勝しましたが,今後の推移はなお予断を許しません.

改革への歩み

 88年にイラン・イラク戦争が終わり,89年にはホメイニ師が死去しました.このときイラン国内には一種の権力の空白が生じましたが,国内に原理派以外に政権を担当できる勢力は残っていませんでした.やがて極め付きの原理派,ハメネイ元大統領がホメイニの後継者となり,戦争中にもまして抑圧的姿勢を強めるようになりました.

 しかしこの路線に未来があるわけではありません.民主主義の欠如は腐敗を呼びます.経済封鎖で密輸品の値段は上がり、有力な聖職者とコネを持つ一部の商人だけが儲けられるようになりました.他人に厳格な教義を押しつけながら,自らは蓄財に狂奔する最悪の独裁体制へと変質していきました.

 94年には、言論の自由を求めて作家協会を結成した134人の作家のうち、5人が「謎の死」を遂げました。町では宗教警察がパトロールを続け、レストランで歓談している人々や男女カップルを取り締まるようになりました.

 人々の不満の高まりは、1997年の大統領選挙で明確になります.当時の大統領ラフサンジャニは民主主義の見せかけを作るために,複数候竄を立てました.いわばその「当て馬」だったハタミ師が,意外にも得票率70%で圧勝してしまいます. ハタミは80年代に文化イスラム指導相を務めたことがありますが,そのときは「女性が口紅やマニキュアを塗るようになり堕落した」責任をとらされる形で辞任しています.

 ハタミはイスラム原理主義をあらため,世俗法に基づく支配を進めようとしました.しかし大統領とはいえ,当初,ハタミのもつ権力は微々たるものでした.たとえばハタミは「悪魔の詩」の作者サルマン・ラシディに関する「死刑」は実行しないと宣言しましたが,すぐその後に,最高指導者のハメネイ師が「死刑宣告は有効である」と再宣言しました.

 去年の夏,テヘランでは改革を求める学生の動きが一気に高まりました.学生は街に出て示威行動を始めました.これに対して原理派は地方から活動家を動員,一触即発の危機となります.事態の「天安門」化を恐れたハタミは懸命の説得を続け,学生もいったん戦術をダウンさせました.

 こうして両派の対立は総選挙へと移行していきました.三権の内,行政を握るハタミ派と司法・警察権力を握る原理派のどちらが立法権を掌握するかが,まさに関ヶ原となったのです.

 選挙を前にした99年末にかけて、原理派は恐怖支配を図りました.何人かの民主活動家が殺されたり、行方不明になったりしました.

 ところが,これは逆効果になりました.最初,原理派と官憲当局は「アメリカかイスラエルの犯行だ」と発表しました.ところが,新聞各紙がいっせいに調査報道を展開し、当局の事件の関わりを暴き立てました.

 今年1月、ついに情報省は,犯行が組織内のスタッフによるものであったことを認めました.そして事件にかかわった2人の職員を逮捕しました.面目失墜もいいところです.



総選挙と今後の方向

 こうして行われた2月の選挙の結果は、周知のごとくハタミ派の地滑り的圧勝でした.首都テヘランでは15議席中、ハタミ派が12、無党派が3で,原理主義派はゼロになってしまいました.また第2の都市イスファハンでも,11議席のうち7つをハタミ派が獲得しました.

 改革派の前進を見た米国は,今度は平和カードで揺さぶりをかけてきました.オルブライト米国務長官はイラン問題について発言.そのなかで「イラン・イラク戦争でイラクを支持したことは“近視眼的で取り返しがつかない過ち”だった」と,最大級の表現でイランへの呼びかけをおこないました.そして経済封鎖の部分解除と,数十億ドルに上るイランへの凍結解除の意向を明らかにしました.

 イラン政府は慎重な表現ながら歓迎を表明しましたが,ハメネイ師は強く反発し「イランはこれからも米国を敵とみなす.米国の過去の態度は敵意と裏切りに満ちている」と非難しました.(それはその通りですが…)

 追いつめられた原理派は,ますます強硬な手段に出るようになっています.選挙の直後,ハタミ派の新聞社の編集長が銃撃される事件が起こりました.各紙は一斉にこの事件を取り上げ,事件の背後に原理派がいると批判しました.

 イスラム最高指導者で元大統領のハメネイ師は,マスコミの動きを「イスラムの原則に反し,敵と内通し,革命を覆そうとする仕業」と非難しました.その直後,テヘラン州の司法当局は改革派の新聞・雑誌を発禁処分にしてしまいました.いよいよ牙をむき出してきたというわけです.

 これは去年の学生デモに対する弾圧と同様,保守派の巻き返し策の一環と見られますが,総選挙に現れた国民の改革への願いを踏みにじって,このままの原理主義の社会・政治体制を続けることは困難です.

 総選挙の後半戦がこの夏おこなわれますが,その際,保守派が新議会を認めるか,クーデターなどの手段にうって出るか,情勢は予断を許さないものとなっています.