「アジア・アフリカ・ラテンアメリカ」(北海道版)2002年3月号より


【ちょっとお勉強】

よい子のためのパレスチナ問題〜初歩の初歩!!!



◇イスラエル・パレスチナ衝突◇

 2000年9月、イスラエルの右派政党リクードのシャロン党首(現首相)がエルサレムのイスラム教聖地「ハラム・アッシャリーフ」(ユダヤ名「神殿の丘」)を訪問。この地がユダヤ教徒の聖地だと誇示する狙いでしたが、パレスチナ側が猛反発し、今回の衝突が始まりました。

 パレスチナ自治区への侵攻などイスラエル軍の強硬策に対し、パレスチナ過激派は自爆テロや銃撃で応戦。犠牲者数は既にパレスチナ側で1000人を超え、イスラエル側でも約350人にのぼっています(3月23日現在)。

・・・・さて、そもそもパレスチナ問題とは?

1)パレスチナってどこ?

 パレスチナとは地中海の東岸に面するレバノン・シリア・ヨルダン・エジプトさらにシナイ半島に囲まれた地域のこと。ただしその地域の大部分にはイスラエルが建国され、現在はガザ地区(種子島より小さい)とヨルダン川西岸(三重県と同じぐらい)でパレスチナ自治政府が展開されているます。

 ユ−ラシア大陸とアフリカ大陸を結ぶ「文明の十字路」であったパレスチナは、太古の昔から、さまざまな文化を持った人間集団の出会いの場でした。このような、異なる人々の間の交易、協同、紛争が織りなす独特の歴史のなかから、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という3大宗教も生まれたのです。

 16世紀初頭から400 年にわたり、パレスチナは「オスマン帝国」というイスラ−ム国家の支配下にありましたが、第1次世界大戦後はイギリスに占領されました。

2)パレスチナ問題〜その始まり

 今日にいたる問題の発端は、中東での覇権をめざしたイギリスの態度です。イギリスは第一次世界大戦で、オスマントルコとたたかい、戦争を有利に進めるために「三枚舌」外交を行います。フランスとの間では、戦後の中東を両国で分割する密約(サイクス=ピコ協定)を結びながら、アラブ人にはパレスチナを含むアラブ国家の独立を認め(フセイン=マクマホン書簡)、ユダヤ人に対してもパレスチナでの「民族的郷土」の建設を支援する約束をします(バルフォア宣言)。

 紀元1世紀にユダヤ王国がローマ軍に滅ぼされ、世界に離散していたユダヤ人は、19世紀末以降、特にヨーロッパにおける反ユダヤ主義の高まりの中、自分たちの国の建国を目指してパレスチナへの移住を開始します(シオニズム運動)。1930年代以後のナチスによるユダヤ人の迫害がこの移住に拍車をかけます。600万人のユダヤ人が虐殺されたホロコーストの悲劇がもう一つのパレスチナ問題の背景です。

3)パレスチナ問題〜その対立の経過

 第二次世界大戦が終わる頃、パレスチナのユダヤ人人口は60万人に達していました(人口の1/3)。パレスチナ人とユダヤ人の衝突とイギリスを標的とするテロの頻発に手を焼いたイギリスは1947年、問題解決を国連に委ねます。同年11月、国連はパレスチナをパレスチナ人とユダヤ人の国家に分割し、エルサレムを国際管理下におくというパレスチナ分割決議を採択します。

 人口で1/3、土地所有面積で6%弱のユダヤ人に57%の地域を割り当てる決議をユダヤ人は受入れ、アラブ人は拒否。1947年5月14日、イギリス軍が撤退するとユダヤ人は当事者間の合意がないまま、イスラエルの建国を一方的に宣言、分割決議に反対するアラブ諸国がイスラエルに攻め込み第一次中東戦争が始まります。戦争の結果、イスラエルは国連の決めたユダヤ人の領土をはるかに超えて侵略、追い出されたパレスチナ人70万人(100万人とも)が難民となりました。イスラエルが侵入しなかった東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区をとガザ地区はそれぞれヨルダンとエジプトが占領しました。

 以後、計3回の中東戦争がたたかわれ、67年の第三次中東戦争でイスラエルは全パレスチナを支配、シリア領ゴラン高原とエジプトのシナイ半島も占領しました。国連安保理は占領地からの撤退をうたった決議242号を採択しますが、イスラエルは受け入れず、1982年にシナイ半島は返還されたものの、基本的に占領状態を続けています。

4)パレスチナ人とは?

 イスラエルの建国と共にパレスチナのイスラ−ム教徒とキリスト教徒の多くは難民となり、残りは、この新しいユダヤ人国家の「少数民族」に転落しました。今日「パレスチナ人」と呼ばれているのは、このようなアラブのイスラム教徒とキリスト教徒のことで、総人口は840万人。ガザとヨルダン川西岸に290万人(うちエルサレムに21万人)が居住し、西岸58万人、ガザ82万人、ヨルダン151万人、シリア37万人、レバノン37万人、国連に認定されているだけで計362万人の難民がいます。

5)ユダヤ人とは?

 一般にユダヤ教を信じる人たちを指します。イスラエルの公用語の一つはへブライ語。イスラエルへの帰還を保証する法律には「母親がユダヤ人、もしくはユダヤ教に改宗した人で、他の宗教を信じていない人」と定められています。イスラエルの約480万人をはじめ、世界各地に約1300万人が住むといわれています。度重なる戦争のため、最も多くのユダヤ人が「民族的郷土」となるはずのイスラエルで亡くなっているのです。

6)PLOとは?

 PLO(パレスチナ解放機構)は、1964年に設立されたパレスチナ人の政治的、軍事的組織で、パレスチナ人の民族自決権を承認した1974年の国連総会以来、海外に住む難民を含めた全パレスチナ人を代表する組織として、国際的に唯一承認されている組織です。国会にあたるPNC(パレスチナ国民議会)と内閣にあたる執行委員会をもち、傘下には様々なグループを抱えています。アラファト氏(写真左)はファタハ(パレスチナ解放運動)の指導者で、執行委員会議長。

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 設立当初、PLOはイスラエル抹殺の立場をとり、武力闘争を展開、一部戦闘員による無差別テロはパレスチナ問題解決を妨げる最大の障害の一つとなりました。イスラエルも82年にPLOが首都ベイルートに本部をおくレバノンを侵攻、その際、イスラエルが後押しするレバノン民兵(ファランジスト)がパレスチナ難民キャンプ(サブラ、シャティーラなど)を襲撃、数千人に上るパレスチナ人を虐殺しました。このときのイスラエル国防相がイスラエルの現首相シャロン氏(写真右)。

7)和平への努力

 80年代後半、ガザと西岸地区のパレスチナ住民は、投石による抵抗運動に立ち上がります。インティファーダです。世界の目が再びパレスチナに注がれました。88年PNCは国連の分割決議に基づくパレスチナ国家独立宣言を行います。国連安保理決議242の受入れ、イスラエルの生存権の承認、テロ行為の放棄を表明、二国家共存路線への転換です。湾岸戦争(91年)を経て、ついに、1993年、ノルウェーの仲介で、PLOとイスラエルはこの争いを交渉によって解決することで合意します(オスロ合意)。

 合意はパレスチナ人の民族自決権の実現を保障しませんでしたが、PLOがイスラエルを国家として正式に承認し、武力による抵抗を放棄する、この見返りとして、イスラエルは、1967年の占領地の一部分にパレスチナ人による自治を認めることになりました。翌1994年5月4日、パレスチナ自治政府が発足。96年には選挙もおこなわれ、PLOのアラファト議長が行政機関長官に当選しました。

 しかしその後の交渉は、イスラエルに巨額の軍事援助を行う米国が仲介の主導権を握ったこと、イスラエルが入植地の拡大政策をとったこと、オスロ合意を認めない過激派によるテロなどにより難航。99年5月、オスロ合意で決められた最終地位交渉の5年の期限が切れました。

  

(エルサレム・嘆きの壁)PALESTINE3


8)占領地での生活

 パレスチナ人たちは、陸の孤島のように分断された自治区に事実上閉じ込められ、不自由で貧しい生活を強いられています。パレスチナ自治区の外側をイスラエル軍が取り囲んでいて、人々が『巨大な牢獄にいる』ような状況に置かれています。またイスラエル国内のパレスチナ人は権利が制限され、二級市民のように扱われています。そして二世代、三世代にわたり難民キャンプでの生活を強いられている人々もいます。南アフリカの「アパルトヘイト」のような状況とも言われます。

 一昨年の9月以来の衝突は、双方の銃撃線に加え、テロと報復の連鎖にはまり込んでいます。圧倒的な武力を持つイスラエル軍はパレスチナ自治政府を「テロ支援組織」と呼び、ミサイルも使用する容疑者殺害、パレスチナ自治区への侵攻・自治政府事務所も攻撃しています。パレスチナ自治政府長官のアラファト氏も自宅軟禁状態が続き、3/28まで開催されていたアラブ首脳会議への出席もイスラエルは許しませんでした。

                                        (以上 2002/3/28 by Asako)


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