≪団塊世代のメモリーズ≫

 戦後は終わった。

で も、我々団塊世代の原風景・原体験は「戦後の日本」そのものなのだ。
  そして、インプットされたそれらの体験は、
    同世代の私達に、生涯に亘り影響し続ける。
     とは言うものの、記憶というやつは時代と共に薄れて行くもの。
    だから私は、ここに記録する。
    私のメモリーを・・・。
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 下から見てね


2015・9・26(土) 雨 のち晴れ のち曇り
 私のHPの中にある『団塊世代のメモリーズ』はかなり評判である。
それでネタをもっともっと増やして単行本にしようかとも思う。
しかしだ、現代は本がまったくと言ってよいほど売れない時代だ。
 売れないんだったら出す意味がない。

 そこで、さっき、ふと考えたのだが、「CDにする」である。
つまり読んでもらうのでは無く、音(声)で聴いてもらう方法だ。
もしかするとこの方法は本で残すより貴重かもしれない。
だって「仙台弁で喋れば貴重な仙台弁が音で残せるんだもの・・・」
(仙台弁を本で残している人は大勢いるが、喋りで残している人は非常に少ない)



2014・4・13(日) 晴れ
★(98)
 我々の世代(昭和22・23年生まれ)の話だが、
中学を卒業すると同時に就職をする少年少女を指して『金の卵』と世間は呼んだ。
そして名取市増田中学校の同級生の4分の1は就職をした。(1963年・昭和38年)
その就職組の中の10人(?)くらいは東京の工場へ就職した。
(大田区の町工場が多かった)

 東京へは『集団就職』と言うの名の下に、就職列車に乗って向かうのである。
夜の9時半頃、名取駅に到着する東京行きの汽車の後尾に
増結された列車に乗って行くのであった。
 さて就職列車へは名取市内の各中学校卒業生(金の卵)が一同に乗りこんで行く。
夜の8時頃から増田駅正面の広場には多くのお見送りの人たちが集まる。
当然、俺の親友たちも東京へ働きに出かけるのでお見送りに出かけた。
そして友人たちと涙の別れをするのであった。

 ところで聞いた話だが、
お見送りするにも名取駅から遠かった館腰地区の人たちは
途中の線路脇に並んで通過して行く列車を待ったそうだ。
そして列車の窓から手を振る金の卵を一瞬でも見たいと思ったそうだが、
なにせ夜のために姿が見えるわけがない。
そこでお見送りする親戚一同たちは線路脇で
ワラを焚いて気付いてもらう目印にしたと言うではないか。(涙・涙!)
 (補足:現在ある館腰駅は当時は無かった)


 またまた聞いた話だが、
俺たちより3歳年上(昭和19年生まれ)の集団就職者は、
なんと東京へ行くのに布団を持参で行ったと言うではないか。
そんな嘘のような本当話を聞かされた。
 我々22年生まれの世代は『金の卵』ともてはやされただけあって
さすがに布団は会社側で用意するものとなっていた。
 それで、当時、布団はどうやって運んだか?
答えは『チッキ』で・・・

(補足:この時代はまだ『団塊世代』と言う言葉はなかった。
 その当時は『金の卵』と呼ばれた
 『団塊世代』と言う言葉は堺屋太一の造語で1970年前半になってできた)




2014・3・26(水) 曇り
★(97)
 戦前戦後と日本には多くのオートバイメーカーが存在した。
ところが昭和35年(1960年)頃になると戦後スタートのオートバイメーカー、
ホンダ・スズキ・ヤマハ・カワサキ・ブリジストンの台頭により、
古いメーカーが次々と倒産して行く。

 〔倒産した有名メーカー〕
ポインター ・ トーハツ ・ メイハツ ・ 山口 ・ メグロ ・ 陸王 ・ ラビット 等々。

 俺は中学を卒業してすぐ仙台の東二番町通りにあった会社、
『目黒オートバイ梶xに修理工として就職した。
就職してすぐに目黒オートバイ(メーカー)は
経営不振によりカワサキオートバイに吸収合併され、
『川崎メグロオートバイ』となった。

 ところでメグロオートバイの車種に『Z7(500CC)』と言う単気筒の名車がある。
そしたらスナック団十郎のお客様が、そのZ7を持っていると言う。
信じられない話だ。
そのうち見せてもらいに行く。
たぶん、いや、絶対にそのバイクと私は1963年に御対面しているはずだ。
だって宮城県内で販売されたメグロオートバイの全てが
私が働いていた仙台の『メグロオートバイ』でのみ販売だし、
部品販売や修理はここでしかなされていなかったのだから。

 メグロオートバイを辞めてから19才までオートバイ修理の会社を転々とした。
そしていろんなオートバイメーカーの修理をやり、
いろんなエンジンを見てきた。
その中で俺が1番好きなエンジンはと言えば、なんと言っても
『山口オートバイ』である。
何が凄いかと言うとミッションのギアシャフトの作りが他とは
まったく違っていて完璧だった。

 それでは最後に『メグロオートバイ』のカタログとテ レビCMを御覧下さい
特にテレビCMがとてもノスタルジーで楽しいですよ。



2014・3・14(金) 曇り
★(96)
 俺が生まれて初めて見た芸能人って言うのは
女優の『河内桃子』。そして天才画家の『山下清』である。

 昭和31年、俺は8歳の時、母ちゃんに連れられて仙台の七夕祭りを観に行く。
そしたら中央通りで七夕のテレビ中継をやっていた。
すると浴衣を着た可愛い女性がマイクを持ってニコニコと喋り出す。
それを見て母ちゃんは
「この女優さんは『ゴジラ』の映画さ出演していだ河内桃子って言うんだど」
って教えてくれた。

 それからまた七夕を観賞ながら中央通りを進んで行くと、
なんと観光客が足を止め菅原園と言う御茶屋さんの2階を見ているではないか。
そしたら母ちゃんが
「あの2階で絵を描いている人はな、山下清って言う有名な画家なんだよ」
って教えてくれた。
(山下画伯は仙台の七夕を観て 「元 帥級の七夕なんだな」って絶賛したそうだ



2014・3・8(土) 晴れ
★(95)
 俺が6歳のときの流行語に『原爆マグロ』と『放射能の雨』と言うのがあった。
そして俺達は大人から「マグロを食うと危険だよ」と言われたり、
「雨が降ってきたら必ず帽子をかぶれ」と教えられた。
 つまり昭和29年3 月1日、アメリカがビキニ環礁で水爆実験をやった
そのとき、運悪く近くでマグロ漁をやっていた焼津漁港の船『第5福龍丸』が
被爆し死の灰をかぶってしまった事によるものだった。



2013・7・30(火) 小雨
★(94)の続き。
 【バカボンのパパからのメール】
 トスケ懐かしいすね!!何でトス ケって言うんだべね?
自分の時は小粒の甘納豆で
一等、二等はおもちゃでウルトラセブンの人形だったんだげど

俺が引いたら両方当たってしまって そごのおばちゃん焦って
一個だげ違う景品にしてけさいって 言われでなくなく我慢したげっとも
今思えばずるいんだおん!!
でもそごのおばちゃん一等、二等が 早々と無くなってすまったんでは
売れなぐなっと思ったんだっちゃね!


こ の話は凄く笑えるね。

 俺の時代の『甘納豆くじ引き』の当選商品は大きい袋の甘納豆だけでした。
それで1・2等用の袋は2個づつ、3・4等は5個くらいづつぶら下がっていました。
だから1・2等にかんしては1個づつ当たっても問題ない仕掛けになっていて、
それで残りの1個にかんしてはたぶん最後まで残るように計画されていたみたい!?。

 やがて時代が変わり、バカボンのパパの時代には
公正取引委員会・消費生活センターが
うるさくなり八百長はできなくなったみたいですね。
だから『1等商品が早々と出てしまい、オバちゃんが困って泣きついた』って事ですかね。



 2013・7・29(月) 曇り のち雨
★(94)駄菓子屋のくじ引き
 子供の頃、商店街の中に駄菓子屋があった。
その店にはトスケ(くじ引き)と言うお菓子があって、
たとえば小豆甘納豆のトスケは
特大・大・中・小の甘納豆が入った袋がぶら下がっている。
そして5円を出して一番小さい袋を引く。
すると袋の中に『スカ(はずれ)』とか『1等』『2等』『3等』などと書いてある。
当然1等の特大の袋が欲しくて毎日買いに行く。
 ある日、引く袋(小袋)が1個しか残っていなかった。にもかかわらず
1等と2等の大きい袋がまだ残っていた。
「おかしいな?」と思いながらも子供だったもので、
最後の1個の小袋を引けば1等か2等のどちらかが当たると思い、
ワクワクしながら引いた。
そしたら中に入っていた紙には『スカ』と書いてあった。
そしたらその後、オバちゃんは
1等の袋には『20円』、2等の袋には『15円』の値段をつけて売っていた。

 ところで時代は変わり、今日の時事通信のニュースが面白い。
露天で当たり無しのくじ引き=詐 欺容疑で男逮捕・大阪府警
 ハズレばかりのくじを客に購入させたとして、大阪府警阿倍野警察署は28日、詐欺容疑で
露天アルバイト『A容疑者・44才』を逮捕した。
 露天商のAは「あたりくじが入っていないのは分かっていた」と容疑を認めていると言う。
 くじは1回300円だったが、約1万4千円分引き続けた客が
「当たりが入っていないのでは」と同署に相談し、発覚した。

 この記事を読んで、私はこう思った。
子供の頃、最後の1個の甘納豆を引いてハズレだったあの店を警察に訴えたら
もしかして特大の甘納豆貰えたかも・・・。



★(93)農地解放
 
昭和21年(1946年)
1 7日のニュース。
 農地解放と言うのがあって、農地を小作人に解放する事となったのっしゃ。
これは農地審議会が県別地主の保有面積を決定すたんでがす。
基本的には5町歩を越える農地は小作人たちに強制譲渡とされる。
但し北海道の場合は19
町歩まで認 められ
逆に奈良県など6県では3町6反までとされた

それと地主がその地域に住んでいない場合、
その農地はすべて没収され小作人達のもの、と言うふうに決定。

 ついでに
★(83)の所も読むべし。



2013・4・17(水) 曇り ときどき 晴れ
★(92)ノーパンクタイヤが復活したみたい。

 作業用一輪車のチューブがすぐにパンクする。
安いタイヤ(チューブ入り)はメードインチャイナなので
買って1ヶ月もしないうちにパンクする。
そこで新しいのを買いに行ったら店員が
「タイヤはチューブ入りにしますか? それともノーパンクにしますか?」
って言った。

 そういえば、ノーパンクっていう言葉は私にとってとてもなつかしい響きなのだ。
と言うのは、私が始めて乗った自転車はノーパンクタイヤだった。
小学校5年の時、新聞配達をやるのに
兄貴からもらったボロ自転車がはいていた。

 この時代、既にノーパンクタイヤは何処の家にも無かったはず、
でも我が家にはあったのだ。
と言うのは、我が家は かつて自転車屋だったから、
その名残りでノーパンクタイヤがあった。
そのノーパンクタイヤを兄貴は俺の自転車にはかせてくれたと言う訳だ。

 このノーパンクタイヤは絶対にパンクはしないけれど、
ゴトゴトゴトと振動が激しくてスピードが出せないし、
なんとその時代、わが町には舗装道路が1本(4号線)しかなかったので
多くは凸凹道やジャリ道をその自転車で走る事になる。
すると尻や胃や手がシビレて痛くなるのであった。
そんな事を思い出させてくれたノーパンクタイヤなのでした。




2013・2・16(土) 朝小雪 のち曇 り
★(91)なぜか、警察が出動するの巻。

 中卒(15歳)で働いた俺とO君。しかしお互い半年で会社を辞める。
そしたらある日、O君が「仙台の職業安定所ぬ職探すさ行ぐ」って言うので
俺も暇だったので付き合った。
 名取駅から汽車に乗って仙台駅へ。
そこから歩いて20分の荒町にある職業安定所に到着。
 安定所の職員にO君はいろいろと会社を紹介された。
しかし気に入った会社がないらしい。
だから、その内また出直すこととした。

 O君と私はまた歩いて仙台駅へ。
そして仙台駅正面の時計の下を歩いているとき、
突然大人の男性が我々に声をかけてきた。
 「お兄ちゃん達、東京に良い仕事があるんだけど、そこで働かないかい?」
 そしたら、O君はその話に乗っちゃって「東京に行ってもいいよ!」って言うじゃな〜い。
もともとO君は東京で働きたかったのだ。しかし東京に頼る人が居なかったので
行きたくても行けない状態だったのである。
それで「明日のOO時にこの仙台駅に、荷物まとめて来るから」って言う話でまとまった。

 嬉しくなったO君は
「職業安定所の人に『仕事みつかったよ』って教えに行ぐべ」と言うので、
また安定所まで20分かけて歩いて行く。そして安定所に着くなり、
さきほど担当してくれた職員に向かってO君は得意になって
「仕事みつかったよ。それも東京なんだおん!」と喋りだした。
そしたら職員は「良かったね、おめでとう!」
って言うどころか逆に職員どおし大騒ぎになったではないか。
そしたら職員達が車に乗り俺達にも「車に乗れ!」って言うじゃない。
その向かった先は仙台駅。駅に着くなり駅の交番に入り、おまわりさんを連れ出す。
そして俺達に向かって
「東京の仕事を紹介するって言った大人はどの人が言え!」って言うの。
それで「あの人!」って言うと警察達はその人を取り囲んで、
少しだけ何やら話をしたと思ったら、いきなり手錠を出して「ガチャッ」。
そしてその人を交番まで連行したんでがす。
オラ達はオロオロしていたら、「あんた達はもう帰っていいから。
んでも仕事探すときはな、知らない人の話に乗っては駄目だど!」って注意をうけた。

 ところで先日、映画『警察日記』(昭和30年)を観た。
その映画の中で杉村春子が警察に捕まっていた。
その理由は許可無く未成年者に仕事を紹介し
あっせん料をとり、それを生業にしていたからである。

 私も今になって考えれば分かるのだが、冷や汗もんである。
これが家出少女だったりしたらとんでもない話だ。
親友のO君だって危機一髪だった訳である。



2013・1・5(土) 晴れ
 
★(90)昔のアメリカのテレビ番組は16ミリのフィルムで撮影されていた、の巻。

 NHKテレビ、 BSプレ ミアムチャンネルで深夜『BS洋楽グラフティー60』
をやっていた。
 これは非常に懐かしかった。チャビー・チェッカーやクリスタルズ、
ジン・ピットニー、そしてポールとポーラの『ヘイ・ポーラ』。
特に感動したのがクリフ・リチャードの『ヤング・ワン』だった。
『ヤング・ワン』が流行ったのは俺が中学2年の時。

 この時代は外国の歌手(歌)を日本のテレビで観るなんてことは
ほとんど無理。
だから外国の超有名歌手であっても日本人は歌っている歌手の顔も知らずに
ラジオから流れる歌を聴きながら勝手に顔を想像していた。
顔を知る唯一の方法はレコードのジャケット写真だけ。
そのジャケットに歌手の顔が写ってない時はガッカリしたものだった。

 以前、外国人歌手の動く映像を観て物凄く感動した事がある。
その歌手とはザ・ロネッツ、シャングリラス、ヘレン・シャピロだった。
その動く映像を何で観たかと言うと、それはYOUTUBE。
なんと情けないや、つい最近の話である。

 この1960年頃のテレビ番組と言えば、テレビ局内での生放送以外は
映画撮影と同じで、フィルム撮影でドラマ等を制作していたので
大変な作業だったらしい。
ところがだ、残念な事に生放送の番組はフィルム撮影をしていなかったので
映像としてまったく残っていない!?(非常に勿体無い)

 その当時、日本のテレビでもアメリカのテレビ番組『ローハイド』や
『名犬ラッシー』や『ローンレンジャー』、『コンバット』など、沢山放映していた。
これらは日本の配給会社がアメリカにわざわざ出向いて行って
フィルム
(缶に入った16o)と放映権を買 い付けていたそうだ。
そうして買い付けたフィルムを全国のテレビ局に有料で貸していた。
 全国のテレビ局は放送が終わるとフィルムを配給会社へ返却する。
返却されたフィルムは今度は別の放送局へと貸し出される、と言った具合なので
全国同時放送という事はありえなかった。




★(89) ストローは・・・。
 子供の頃、
ストローは乾燥させた麦の穂だった。
シャボン玉を買うとストローとして付いてくるのは麦の穂だった。

 トウモロコシの幹の皮を剥くと白いコルク質のような真棒が残るよね。
その真棒に赤・白・青・黄色等の色を付け、15センチ位に切った棒が
売られていた。それは子供の工作用の商品だった。
 遊び方は例えば、
竹ヒゴを挿して繋いで馬などの動物を作ったりして遊んだ。
現代で言う、ブロック遊びみたいなもんだった。



★(88) 送り盆の夜は・・・。
 子供の頃、オラホの町(名取市増田)では
送り盆(16日)の夜になると各家々の前の道路(旧4号線沿い)で
送り火を焚いた。燃やした物は麦の穂や藁だ。
子供達はその火を見物するために浴衣を着て夜の4号線を歩いた。
 昭和35年頃までの4号線は夜になると車は走っていなかった。
だから七夕祭りも夜になると歩行者天国みたいなもので
ノンビリと見学して歩けた。

 ところで、今考えると恐ろしいのは
送り火を商店街の前で焚いた事である。
んだって商店街とは言っても茅葺き屋根の家が結構あったんだよ。
そんで何処の家でも麦藁の送り火を燃やしたんだよ。
子供達はその火を使って花火をやったんだよ。
んでも花火って言ったって現代のような豪快な
打ち上げ花火は無かったけどね。



★(87) お盆になると・・・。
 子供の頃、オラホの町(名取市増田)では
お盆になると仏壇の前に盆棚をこしらえ供物を置く。
川からマコモを取って来て供物用のゴザを作る。
畑からは里芋の葉っぱを取って来て食べ物を置く。
仏前に吊った竹の竿にぶら下げるのは
お茶の実・ミョウガ・茄子・キュウリ・ほおずき等。
それとキュウリと茄子には割り箸をそれぞれ4本挿して、
キュウリは馬、茄子は牛にする。
 『仏さんは馬に乗って早く来て下さい』
 『帰る時は牛に乗ってゆっくりと帰って下さい』

 仏さん用の食事は『あんかけウドン(そうめん)』
私はこのあんかけウドンが嫌いだった。
あんかけウドン=あの世へ逝った人の食事、って感じがして・・・。

 送り盆の時にはそれらの供物を里芋の葉っぱと
マコモのゴザに包んで川に流してやった。



★(86) 防空壕
 オラが子供の頃、十三塚山周辺(名取市増田手倉田)
には2つ防空壕があった。
 その中の1つの防空壕は20mくらいで行き止まりになっていたが、
もう1つの方は、入り口は狭く奥は深く、
その穴は100mくらい続いていて、やがて出口へと繋がっていた。
 オラは小学生の頃から中学生まで、何度か探検に行った。
でも行く度にだんだんと穴が少しづつ崩れていて、
やがて這いつくばらないと入って行けなくなってしまった。
 でも今思うと、危ない遊びだよね。
「これって、禁じられた遊び?」

 現在、ここの場所は「名取市民(十三塚山)球場」になっている。
もう1つは球場向かいの市営住宅地になっている。


★(85)
 昭和33年(1958年)3月31日まで
「自転車荷車税」と言うのがあった。
つまり自転車や荷車に税金が課せられていたのである。
自転車1台につき、年200円。

 ところが戦後の物価高騰などもあり自転車税による
収入の割合がわずかとなっってしまった。
そして逆に事務手続き等の費用の方が高くなる。
そういった理由により80年余りも続いてきた
自 転車税が廃止 となった。


★(84)
 月光仮面が乗っていたオートバイは「何でしょうか?」と質問すると
多くの人が「ホンダカブ号」と答える。しかしこれは不正解です。
 カブ号はスクータースタイルなのでガソリンタンクが見えない。
しかし月光仮面のオートバイにはガソリンタンクがしっかりと見えている。
よって、テレビの『月光仮面』が乗っていたオートバイは、

当時(1958年)、凄く流行っていたホンダの250cc「ドリーム号」 な のだ。

 ちなみにテレビでの月光仮面(主役)は『大瀬康一』。
 映画での月光仮面(主役)は『大村文武』である。

 ところでテレビではなく、映画『月光仮面』で使用したオー トバイは 『陸王』である。
たぶん750CC・RT-2(1958年)だろう。
当時(1958年)の陸王オートバイは750CCが主流だったし
映画を観てみるとオートバイの大きさからして750CCみたいだし、
フロントフォークとライトの間隔や形を見るとRT−2である。

 私は1964年(15歳)にオートバイの修理工として働き始めた。
その時にベンリー号や陸王オートバイの修理を実際にやって試乗もしているので
形(スタイル)をしっかりと記憶している。

 あるとき月光仮面はオートバイに子供2人を乗せ、
3人乗りをしたのである。(テレビの第2部・12話「決戦近し」)
1人は後ろに、あと1人はガソリンタンクに・・・。
(中国に行くと現在でも「5人乗り」って言うのが見れるけど!)

 でも昔とは言え、日本のテレビ画面の中で3人乗りしても
問題にならなかったなんてノドカな時代があったんだよね。

 ≪追伸≫
 たとえば月光仮面のオートバイがスーパーカブ(50CC)だったとしよう。
 その当時の50CCオートバイ(原付1種)の速度規制では30キロ以内なんだよ。
それに対して悪者達が乗っている乗用車は60キロまで出せるんだよ。
それどころか悪者達は悪者なんだから逃げるためにはスピード違反だってするはず。
しかし月光仮面は
警 察ではない。そして正義の味方なんだから
絶対にスピード違反をするわけがない。
 つまりこのまんまの状態では月光仮面は置いてきぼりにされ勝負にならないのである。
よってオートバイなんて無意味だし悪を懲らしめる事なんて不可能なのだ。

●スーパーカブ号がもし55CC(原付2種)のだったとしてもスピード制限は40キロだった。

●250CC以上のオートバイは自動2輪で60キロまでスピードが出せたと記憶している。
 そんな訳で月光仮面のオートバイは250CC以上でないと話にならない。

 ≪ 追伸の追伸≫

 月光仮面の正体は探偵・祝十郎です。
しかしそのことは誰も分かりません。主題歌のタイトルも『月光仮面は誰でしょう』です。
つまり、皆が知っていることは『月よりの使者だ』ということだけです。
その月光仮面は正義の味方なので拳銃を持つことを警察から容認されています。
と言うことはスピード違反も許されているかも?
だからといってスーパーカブ号で逃げる乗用車を追いかけるなんてことは絶対に無理。
よって月光仮面が乗っているオートバイはベンリー号(テレビ)、もしくは陸王(映画)です。

 以上、この辺で「オートバイはカブ号ではなかった!」ってことを理解して下さい。


★(83)
 オラよりズーっと年上の男性なんだげんと・・・。
 その人は戦争中、遠くの学校の先生をしていた。
終戦の2年後(昭和22年)、先生を辞めて実家に戻り農業を始めた。
 
 ある時、オラは質問した。
「何で先生辞めたの?」
「農地解放で農家継がないと農地の全部を持って行かれるから・・・」

 その時 オラは、(全部は取り上げられないでしょうに・・・)なんて
心で思った。
 でも最近になってその本当の意味が理解できた。

 昭和21年12月29日〔第一次農地改革〕の公布。
 地主の所有耕地面積を5町歩限定とする。
それ以外は小作人に譲渡する。
 不在地主(その村に不在で小作人だけに依存している地主)の場合は
全て小作人に譲渡しなければならない。

 以上のような公布がなされたという訳だったのだ。


★(82)
 子供頃、セスナ機が上空からビラ(広告チラシ)を撒いていた。
いろんな商売や商店の宣伝ビラだった。
 撒かれたチラシは紙吹雪のように上空を舞いヒラヒラと落ちてくる。
そのチラシを追い、子供たちが駆け回る。
 赤い紙・黄色い紙・青い紙・・・。何枚も拾って自慢をしあった。
今なら迷惑な話だ。紙の始末が大変・・・。
でも昔のことだもの、その拾った紙は便所紙に使った。

 さて、その飛行機から撒くチラシが問題になり、
東京で禁止になったのが昭和39年のことだった。


★(81)
 昭和28年の夏になると、
近くの商店街にアイスキャンディ屋がオープンした。
そこでは「アイスボンボン」を造って売っていた。
 ひょうたん(2段)の形をしたゴムの中に砂糖水を入れ固めたアイスとか、
3段のゴムのアイスとかが売られていた。
それをオラ達は「おっぱいキャンデー」って呼んでいた。


★(80)
 私は小学校5年の時から新聞配達を始めた。
 朝刊配達は朝の5時に起きて新聞屋に行かなければいけないし、
冬はあまりの寒さに手が痛くなり、よく涙を流したものだ。
でも夕刊配達だけは絶対にやらなかったよ、オラは・・・。
んだって、その当時の夕刊は日曜日も有ったのだ。
だから夕刊をやってしまうと、
日曜日は遠くへ遊びに行けなくってしまうんだもの・・・。

 さて、その日曜日の夕刊が無くなったのは
昭和40年4月4日(日)からだった。


(79)
 私が小学校低学年の頃は番傘だった。
穴があけば油紙を張って修理して使った。
 中学校の頃には洋傘だったがとても貴重だったので
その傘の骨が折れると
我が家の親戚のおんちゃんが洋傘修理屋をやっていたので
おんちゃんが出張修理に来た時に直してもらい使っていた。


(78)
 【サッカーの話、その3】
 中田中との練習試合から暫らくののち、
忘れもしない7月21日だった。

その日から夏休みが始まり、前日まで降り続いた梅雨も明け、
スカーっとした真夏日となった。

 しかし、校庭にはとんでもない水溜りがあちこちにできていた。
 「さー、今日は長町中学校との練習試合!」
 オラは背番号11のフォワードウイング。
さて事件は試合が始まって15分もしない内におきたのだった。

 中途半端なバウンドをしてボールがオラの所にやって来た。
胸で受ければ良いものを右足で蹴り上げてしまった。

すると軸足の左足がツルンと水溜りで滑って背後に転んでしまった。
そして身体より先に左手が地面に着いてしまった。
その左手に身体の全体重が乗っかり、

「ボギッ!」っと音がして、オラの腕が折れてしまった。
急いで医者に行って、レントゲンを
撮って添え木をしてもらって学校へ戻ると校門の所で、

試合帰りの長町中学校の選手とハチ遭わせになった。
そしてウツムキ加減のオラに向かって
長中の一人が「バ〜カ」と言ったのだ。

 「オラ、う〜んと悔すがったの!。んでもオラ泣がながったよ!。
んでもオラ、家さ帰ってイッペ泣いだの!」

 

 ★(77)
 【今日の話は昨日のサッカーの話に続く】
 我が増田中学校サッカー部対中田中学校サッカー部の
試合の最中の事である。

 増中の○○君の靴ヒモがホドケてしまった。
すると○○君は審判に向かってこう言った。

「審判〜、靴ヒモ、ホドゲダがら、ターイム!タイム!タイム!」。
何べんとなく叫んでも、審判は無視をしている。
 すると中田中の選手達は大笑いをして、
「増中の奴ら、『タイム』って騒いでんの!
サッカーのルール知らねぇんだっちゃ!」と、あざ笑っていた。

 その事があって始めて増中のメンバーは“サッカーに
タイムは無いんだってことが解かった”

そうなんです。靴ヒモがホドケタラ、
勝手に自分で結べば、それで良いのだ。
何もイチイチ試合を停止させることは無いのである。
(ちょっぴり メンボク無い、増中なの)


(76)
 私は中学(名取市立増田中学校)時代はサッカー部だった。
そのサッカー部にはルールに詳しい人間は誰も居なかった。
(サッカー部ができて、たったの2年目だった)

サッカー指導の先生もルールにはウトかった。
 あるとき、隣り町(仙台市)の中田中学校と練習試合をやった。
試合が始まって早々、我が増中は審判に「オフサイド!」を連発される始末。
つまり増中の全員が、オフサイドを知らなかったのだ。
 今現在に至っても、私はオフサイドって、ハッキリとは知らないのである。


★(75) 子供の頃、映画の上映は小学校の体育館の中でやった。
夏の夜は体育館の中が暑いということで外に幕を張って観せられた。
 外の場合は風が吹くと幕が揺れて、俳優の顔がフニャフニャとなった。

 東映映画の「笛吹童子(中村錦之助)」や「紅孔雀」も観た。
俺は主役の「笛吹童子」よりも
妖術使いの「霧の小次郎」(大友柳太朗)が格好良くて好きだった。


★(74) 小・中学校の図書を買う費用にするため、
小学3年生以上はイナゴ捕りをやった。(小学1・2年生は普通授業)。 
何処の田圃で捕るかは町内でなら各自自由。

 捕獲するイナゴは「1人何百グラム以上」とかのノルマがあった。
学年によってノルマのグラム数が違っていた。

 我が家は兄弟が多かったので
みんな家に一度戻って捕ったイナゴを母ちゃんに渡す。
母ちゃんは天秤量りで量ってそれぞれのノルマ分を布袋に入れて学校に持たせる。
残りのイナゴは家で食べた。

 オライの姉ちゃんはノルマ達成できなくて泣きそうになって家に帰って来たのを
オラは今でも覚えてる。
そんな時、沢山捕った兄(あん)ちゃんから分けてもらことになる。

 オラがやっと3年生になって、「今年からイナゴ捕りができる」って期待していたら、
「イナゴ捕りは今年から中止になりました」だって。
 だからオラは学校行事でのイナゴ捕りはやりませんでしたから〜。ザンネ〜ン!


★(73) 夏休みの終わり頃の季節になると田圃の稲穂に実が入る。
そうなるとスズメが米を食べに田圃に集まって来る。
そこでお百姓さんは田圃の中に櫓(やぐら)を建てて
「スズメぶくい(追い払う)」をするのだ。

 櫓は丸太を組んで直射日光を避けるように
屋根(ムシロ)をかけ日陰をつくる。
その櫓には夏休みの小・中学生の子供たちが上がった。
そして一斗缶を「ガンガン」と叩きながら、「あああ〜 あああ〜」と大声を
上げてスズメを驚かしては追い払っていた。

 それから時代が少し経過。
 やがてテレビが普及してくると子供たちはスズメぶくいの手伝いを
しなくなった。
だから大人がガス(カーバイト)鉄砲を鳴らしてスズメぶくいをやりだした。

 それからまた時代がすこし経過。
 ビニールでできた赤白テープが登場してきた。
その赤白テープを田圃の周囲に張り巡らし「スズメぶくい」に使った。

 そして現在。
 赤白テープの姿は殆んど見かけなくなった。(ほんの少しは見かける)
 「なぜ使わなくなったのだろう?」
もしかして減反減反で米作りの情熱が薄れ、多少スズメに食われても
気にならなくなったのだろうか?
(どなたかその理由が分かれば「教えて・・・」。宜しくね)


★(72) 台風が去ったあとは家の前の川が増水し、
勢いよく濁り水が流れて来る。
するとその水に乗ってプカプカとクルミやイガ栗も流れて来る。
だから台風のあとは決まって魚捕り用の網を持って川に出かける。
そして土手から眺め、流れてくるクルミやイガ栗をすくうのだ。

 クルミの食べ方はハンマーで叩いて2つに割る。
割れたクルミの中身(実)を釘でほじくって食べる。
 んでも子供だったオラはハンマーの加減が判らずオモイッキリ叩いて、
勢い余りクルミを持っていた指まで叩いてしまい、
悲鳴をあげて跳び上がったもんだ。もしくはクルミを粉々に潰してしまい、
食べられなくなり、もったいない思いもした。

 そのほかには、拾ったクルミはお正月に「クルミ餅」にして食べた。


★(71) 昔、荷物を送る場合は
国鉄の駅にわざわざ持って行かなければならなかった。
それどころか、荷物を受け取る場合はもっと大変だった。
(一般の家庭には電話もそれほど普及していなかったし、自家用車も無かった)
 荷物は最寄りの駅に届くのだが、
その駅の担当者がハガキを書いて郵便ポストへ・・・。
そのハガキには
「荷物が届いておりますので3日以内に駅まで受け取りに来て下さい」
と書かれている。
そのハガキを持って駅に受取りに行く。
と言った具合に、凄く面倒で、しかも受取るまでには何日も経過していた。


★(70) 小学5年生くらいの頃、記念切手収集ブームになった。
その頃はお金が無くてシート買いはできなかった。いつも1枚買いだった。
 夢中になっている切手マニアは発売日の朝になると郵便局に寄ってから
学校に来るので、授業に遅れて来る奴もいた。
 
 「将来、この切手は値上がりするぞ・・・」なんて勝手に皮算用しながら
ストックブックを開いては切手を何度も入れ替えして楽しんでいた。
 しかし「値上がりする」なんてのは勘違いで、オラたちが集めだした頃は
ブームの最中だったこともあり、発売枚数が多くなっていて、
誰でも持っているため値上がりなんて期待外れだった。

 その頃、発売された切手は「日本三景」「国定公園・国立公園シリーズ」
「文化人シリーズ」「1月から12月までの花シリーズ」。

 ところで、「値上がりする切手」というのはどういうものなのかと言うと、
つまりブームになる以前の切手なのだ。(発売枚数が少ないから)。
なのに俺達が始めたのはブームになってからだった。

 俺は2年もしないうちに飽きてしまい、「止めた」。


★(69) 子供の頃、お正月を旧正月(旧暦)でする家庭が結構あった。
 小学生のとき、学校の先生から
「旧正月で正月をする家は? 新暦で正月をする家は? 」って質問されて
手をあげさせられた。
そしたら、たいていは農家の家庭が旧暦で、農家でない家庭が新暦だった。
そして新・旧の割りあいは半々くらいだった。

 旧暦の正月のときも3日間くらいは学校が休みになった。
しかし、高学年になった頃には旧暦正月の休みは廃止になっていた。


★(68) 14歳の頃の夜のラジオ番組に
「9500万人のポピュラーリクエスト」(1962年スタート)というのがあった。
小島正雄がDJをやっていて、リクエストによるポップスのランキング番組だった。
 ところでオラが何を言いたいのかっていうと、
この頃の日本の人口が9500万人だったっということ!?
そして、現在だったら
「1億2千万人のポピュラーリクエスト」になるっていうことなの? 
 

★(67) 農家の冬仕事はムシロつくりだった。
 近所の友人ちへ遊びに行くと、
婆ちゃんが大きなハタ織(お)りみたいな機械で、わらのムシロを作っていた。
もしくは、わらで縄(なわ)を編んでいた。


★(66) 小学校の頃はまだ多くの人の腹の中には回虫がいた。
だから学校では回虫検査があって、陽性になった人は虫下しの薬を飲まされた。

 さて、あるときある友人が大きなクシャミをした。
そしたらその人の鼻から太くて白いウドンのような回虫が出ていた。

 あと、トイレに行って用をたし、尻を拭こうとおもって手を尻穴に近づけたら、
なんと尻穴から回虫が垂れていた、なんて話がいっぱいあった。


★(63) 「大家族 スイカ切るのが ひと苦労」なんて俳句があった。

 我が家は10人兄弟。だから納豆が御飯のオカズのときはもう大変だった。
現代のように納豆は一人に一個なんて食べれない時代だった。
全員で納豆が一個だった。だから納豆を増やすために
白菜漬けや大根漬けをコマクきざんだのをタップリ納豆に混ぜて食べた。

 ところでだ。どんぶりに入れた納豆、
みんなで平等に分け御飯にかけて食べるのは良いが、
「最後のどんぶりは誰のもの?」。
誰だってそのネバネバのどんぶりで御飯を食べたいのだ。
そこでお決まりの口喧嘩になった。
(いつもオラが勝った。んだってオラ末っ子だおん。最後は泣けばいいんだも〜ん)

 納豆より困ったのが生タマゴである。皆さん、ちょっと考えてみて?
「生タマゴを4人で分けろ!」 って言われて、「上手に分けられますか?」

 そんなときは一番最初に分けたほうが得するんです。
黄身(きみ)のほうより、白身のほうが先に茶碗に入ってくるのです。
そして白身というのは全卵の6割くらいあるの知ってるよね。
それに白身は粘着力があるの。
だから卵の6割くらいがドバッと茶碗の中に入って来るんだずば。
そこでまたまた喧嘩になるんだずば。
「4人で分けなくちゃいけないのに1人で半分以上奪って行った」ってね。
 (貧しくとも 元気な家族)


★(62) 歌の「バス・ストップ」と聞いて「平 浩二」を思い出す人 は、歌謡曲ファン。
「ホリーズ」を思い浮かべる人は、ポップスファン。
 「真赤な太陽」と聞いて「美空ひばり」を思い浮かべる人は、歌謡曲ファン。
「T・ボーンズ」を思い浮かべる人は、ポップスファン。
 「涙の太陽」と聞いて「安西マリア」を思い浮かべる人は、団塊世代ではありません。
「エミー・ジャクソン」を思い浮かべた人こそ、間違いなく団塊世代なのです。


★(61) 中学を卒業してすぐの事、友達と仙台へ遊びに行った。
一番町通りのパン屋を覗いたら、
それまで見たことも無い物凄く長いコッペパンが売られていた。
友達とオレは驚いて「買って食うべ」と言って買った。
歩きながら、半分こして食べた。そしてこれまたオラは驚いた。
「カデー(硬い)のなんのって歯が立だねんだずば」
これはきっと製造してから何日も経過した売れ残りのパンだ、
と思ったオラ達は返品に行った。
すると店員に「このパンはフランスパンと言って、
このように硬いのが普通なんですよ」と諭されてしまった。
(面目ねぇ〜オラ)


★(60)中学生の時、
東映映画で「花の吉原百人切り」と言う時代劇があった。
片岡千恵蔵が主演だったので、チャンバラしまくって
百人を滅多切りにするストーリーと信じて観に行った。
ところが、映画はさっぱり面白くない。
千恵蔵は花魁(おいらん)と遊んでばかりいて、
いつまで待ってもチャンチャンバラバラは始まらない。
んでも百人は切るんだから、その内に・・・その内に・・・と待っている内に、
とうとう映画は終わってしまった。
そして大人になった今、あの百人切りの百人とは、女郎さんの百人だった、
ということがやっと分がった。


★(59) 靴のサイズは「11文」だった。やがてそれがセンチになって
「26センチ」と覚えるのに一苦労した。
土地の面積は未だに「町・反・坪」でしか計算できない。


★(58) 女性の下着をスリップなんて言わなかった。「シミズ」って 言っていた。
後で分かったのだが、「シミューズ」なのね。


★(57) 【欠陥車・パート3】
昔の車のエンジンはすぐ焼き付いたり、ピストンリングが折れたりした。
オートバイは15000キロくらいで、軽自動車は30000キロくらいで、
オーバーホールをしなければならなかった。
(エンジンのオーバーホールとは、
クランクのメタル交換やピストンのボーリングをし、再生して走った)

つまり、昔は金属の質も粗悪だったし、
オイルの質も今ほど良くなかったから、すぐエンジンが壊れたのだ。
そういえば、エンジンオイルは夏用・冬用と使い分けが必要だった。
ラジエーター液は、夏は水道の水を入れていた。
冬になって不凍液を入れるのを忘れていて
凍らせてしまいラジエーターがパンクしたなんて事がショッチュウあった。

ラジエーターのサーモスタットも今ほど出来がよくなかったので、
冬の寒い日などは、ラジエーターの前に、
ダンボール紙を置いて(風除けの為)走っている車がいた。


★(56) 【欠陥車・パート2】
下記の車のフロントホイールをシメてるナットは、
おもいきりシメてはイケナイのだ。
ベアリングがチョット変わっていて、スリ鉢型のベアリングを使用していた。
その為、おもいきりナットをシメズ、少しづつナットをシメて行き
ホイールが動かなくなったところから、
約4/1回転だけナットを戻す。(するとホイールは丁度良く回転する)
そして、ナットとシャフトの間に割ピンを入れてOK!。

さて、これからがオラの登場である。
始めてその車を修理した新米の時の事。
それまでは「ホイールはおもいっきりシメるもんだ」とばかり思っていたので、
おもいっきりシメタ。すると何か「ボコン」と音がした。
(ホイールが壊れてスッポ抜けた音だった)
「不思議だな?」とは思ったが、タイヤを回してみたら軽快に回ったので、
「異常なし」ということでジャッキを降ろした。
早速、試運転に行った。3分くらい走った所で、
急にハンドルがグラグラと震動しだした。
その途端、左前のタイヤが外れ、吹っ飛んでいった。
車は左に傾き、土手から落ちる寸での所で、やっと停止した。
ひと安心と同時に、身体中からドーッと汗が噴き出してきた。
(死ぬ思いだった?)

※スリ鉢型ベアリングを使用したホイールはその車種だけで、
その後は一切使用されていない。


★(55) 【欠陥車・パート1】
20歳の頃、自動車屋に勤務していた。
この頃、初めて「欠陥車」が問題になった。
それ以前は、欠陥は問題にならなかった。
極端にいえば、昔は全ての自動車のあらゆる個所が欠陥みたいなもんだった。
特に凄いのは、某メーカーの軽乗用車だった。
その車のガソリンタンクは、エンジンの真上に設置されていた。
ガソリンタンクは雨漏りのせいですぐに錆びる。
その雨漏りを放っておくとやがてはタンクに穴が空いてしまう。
その結果、ガソリンがコボレ、エンジンにまともに降り注ぐ。
当然の如く、走行中に後のエンジンから炎が上がり大騒ぎ。消火器を探しまわる始末。
消火器が見つからなければ車は丸焼け。
私が4年間その会社に勤務していて、お得意さんの車、3台がそれが原因で焼けてしまった。

「欠陥車」という言葉がマスコミで初めてニュースになった時、
国民の多数はその意味が分からないと同時に
漢字も読めなかった。(漢字に強い人を除く)
だから、お客さんの中には、「この車も今流行のケッテン車でないの?」
なんて読み間違いをしている人がいた。


★(54) 小学生の時、夏休みの宿題に昆虫採集をやった。
“標本セット”という道具を買ってきて、標本づくりをやった。
セットの中には、注射器と注射液が入っていた。
オラは蝉に注射をしようと、蝉を左手に、注射器を右手に持った。
そして、蝉に向かって注射器を「ブスッ!」と刺した。
ところが、手加減が分からず、
勢い余ってオラの人さし指にまで「ブスッ!」と刺さってしまった。
その時子供ながらに「ヤバイ!大変な事になったど!」と思った。
その夜、布団の中で
「オラは明日の朝、ミイラかハク製になって発見されるのかもな・・・」なんて考え、
ナカナカ眠れなかった。


★(53) 昔は火葬場なんてなかったので、全て土葬だった。
まして車などドコの家にも無かったので、お墓まで葬列をつくって歩いた。
それと、ドライアイスなども無かったので、
真夏の葬式では、白木の棺に血がにじんでいたなんてこともあった。
さて、どこかで葬式があると、近所の子供たちにとっては、お祭りと同じ位嬉しいのだ。
なぜかというと、葬列の先頭では、
大きな木箱を抱えた大人が、道行く人にビスケットをくれながら進んで行く。
だから、お葬式があるっていう情報が入ると、
オラたちは早々とその家の周りに行って愉快に遊んでいた。
でも、その家の人たちは、みんな泣いていた。


★(52) 小学生の頃の勉強机はリンゴ箱(木製)だった。本箱もリンゴ 箱だった。
そのリンゴ箱には綺麗な包装紙や千代紙(ちよがみ)を貼って、
おしゃれに仕上げていた。
だから、女の子なんかは包装紙や千代紙のコレクションをしていた。
よく、友達どうし小さく切っては好みの紙と交換しあっていた。

(千代紙のことを「色紙」とも呼んでいた)


★(51) 20頃までの自動車といえば、
スタンダード型とデラックス型のランクに別れていた。
どこが大きく違うのかと言うと、
デラックス型にヒーター(暖房)は付いていたが、
スタンダード型にはヒーターは付いてなかった。
だから、真冬になると助手席に七輪を乗せて煉炭(れんたん)を焚いている人がいた。
そして、その結果「二酸化炭素中毒になって、次の日には死んでいた」
なんて記事が、新聞にときたま載っていた。

(その頃は当然のごとく、まだ全ての車にクーラーは付いていなかった。)


★(50) 17歳の時、仙台の丸光デパートの屋上の遊園地で、
1歳年下の彼女とベンチで会話をしていた。
するとそこへ、ママポリスがやって来て、
オレ達にいろいろと質問をし注意をしだした。
おまけにオレ達の住所氏名をひかえていった。
その後、それぞれの親と学校に報告され説教をうけた。

今の時代では信じられない、嘘のような本当の話。


★(49) 中学生の時、仙台のデパートのエレベーターに乗った。
エレベーターの中には、「非常止」と書いてあるボタンがあった。
一緒に乗った友達が、「オメ、押すてみろ!」と言ったので、
悪戯気分で押してしまった。
すると当然の如く、階の途中でエレベーターは停止した。
一瞬、頭の中はパニック状態!
とにかく何とかしなくっちゃ、とばかり次から次へとボタンを押しまくったが、
ウンともスンとも動かない。
もう駄目かと思ったそのとき、
「押しても駄目なら引いてみな」と非常止のボタンを引っ張ってみた。
すると、エレベーターは何事もなかったかのようにスムーズに動き出した。
次の階でエレベーターは停止した。そしてドアが開いた。
ところが、開いてビックリ!。
黒山の人だかり。「誰だ?誰だ?」と野次馬やデパートの店員達が大騒ぎ。
そして俺達は、「すこたま怒られた」(すこたま = 物凄く)



★(48) 小学生の時、仙台のデパートにエスカレーターが設置されたというので、
母ちゃんに連れられて、そのデパートに行った。
ところが、エスカレーターの前で、乗るタイミングがとれず立ちすくんでしまった。
それからというもの暫らくは、エスカレーターに乗るのが恐かった。


★(47) 夏の夜は浴衣を着てウチワを持って、
かあちゃんや姉ちゃん達とホタル捕りに行った。
ところによっては、ホタル狩りとも言う。
そのくらいホタルがいっぱい飛び交っていた。
昔はそんな環境が、町中の小川・大川・田んぼのどこにもあった。
しかし、現代では町のほとんどの地域で、ホタルは飛ばなくなった。
幸いにも、今私が住んでいるすぐ近くの小川で、50匹くらい飛び交っている。
ところが、都会から家族でホタル見学に来ては、
親が子供にホタルを捕れるだけ捕ってあげている。
そんな奴らに俺は言いたい。「馬鹿者!捕って帰るなー」と。
来年から居なくなるべ。
今飛んでるホタルが交尾をして川に産卵をし来年に繋がるのだ。
親だったら、そのくらいのこと子供に教えろ。
環境保護を教える結構な場所なのだから。
とにかく、ホタル捕り・ホタル狩りなどという言葉は死語にしないとね。
これからは、ホタル見学と 言おう。 つまり、読んで 字の如く、見て学ばなくちゃ


★(46) 鉄橋の真下(河川敷)にいると、頭上には線路が見える。
やがて、汽車がやって来て、鉄橋を渡る。
すると、真下にいるオラ達に汽車から霧が降ってくる。
逃げればいいものを、なぜかオラ達は大口を開けて霧を受け入れた。
ショッチュウそんなことをして遊んでは喜んでいた。
やがて大人になって、その霧が何だったのかが分かった。
それは、汽車の乗客が垂れ流していた糞尿だったのだ。
汽車のスピードによって、霧となり散らばっていたのである。

 その糞害を一番被った人達というのは、線路脇に家があり
そこで暮らしている人達だったはずだ。

 現在の列車のトイレは貯蔵式。
昔は垂れ流し式だったのでトイレの中には、
「停車中はトイレを使用しないで下さい」と書いてあった。
それなのに注意書きを無視し、 停車中に使用した人のウンチが、
駅(プラットホーム)の線路にトグロを巻いて沢山落ちていたもんだった。

 そこで、昭和43年のニュースから。
 この年の流行語に「黄害(こうがい)」というのがあった。
 国鉄の列車から沿線に撒き散らされる糞尿の被害を指す言葉。
なんと日本各地の列車から撒き散らされる一日の汚物量は
大便が2000トン、小便が145万リットルだった、とのこと。


★(45) 夏休みになると、川で水泳をして遊んだ。
その泳ぐ場所へ行くには、鉄橋(線路)を渡らなければならなかった。
鉄橋の線路の真ん中には50センチくらいの板が端から端まで渡してあった。
これは本来線路工夫が歩く為のもので、一般人が歩く為に設置してあるのではない。
しかし、橋までは遠いので近道をする人は、子供といわず大人も鉄橋を渡ったもんだ。

小学低学年の頃は、その鉄橋を渡るのが物凄く恐怖だった。
50センチの板を踏み外すと、川へ落下してしまう。その恐怖で足はガクガクと震える。
しかし、時間をかけて渡る余裕なんてないのだ。
なぜなら、渡っている途中に汽車が来たんでは、汽車にひかれてしまう。
友達は、そのスリルが楽しいと言って、胸を張って渡っていた。
そこでオラも、臆病者と笑われたくないので、胸を張って渡った。

映画「スタンド・バイ・ミー」を観た時のこと、
なぜかこういった子供の頃の思い出が甦り、感動で「胸キュン」になってしまった。


★(44) 中学?年の時の事。
国語の宿題で、俳句を作ってくるように言われた。
オレは二つも作って、次の日 学校へ行った。
すると、仲の良かった A君が「作ってくるのを忘れた」というので、
オレのを一つ上げることにした。
(A君はクラスで5本指に入るくらい頭が良かった。
それに比べ、オレは中間くらいの頭だった)

良い方の句をオレがとって、良くない方の句を上げた。
【良いほうの句】
  夕暮れの 空をスイスイ 赤とんぼ
【良くないのであげたほうの句】
  蛍光灯 明るく照らせ 部屋の中

そして、自信をもって迎えた国語の時間。
先生は、皆の作品の中から優秀な作品を選び、読み上げ、そして誉め称えた。
すると先生は、なんとA君のを読み上げ、「凄く上手な俳句ですよ」なんて言ってんの。
そしてオレの作品は、まったく紹介しては貰えなかった。
そのときオレは、「これがヒイキって言うやつなんだな」と子供ながらに思った。
 んだって、「蛍光灯・・・」のほうの句には季語がないんだもの・・・。


★(43) 中学校の時、友人達が川の土手に生えている木を切って、
イカダを造って遊んでいた。
そのイカダが完成して、進水式という日に、俺も誘われて遊びに行った。
イカダには2人しか乗れず、俺はイカダに乗る友人の衣服持ちをしていた。
イカダは2人も乗ると、重みで完全には浮かない。
でも、バランス良く乗れば何とか流れる。
俺は、そのイカダを追いかけて土手を歩いていた。
すると突然 、見知らぬ親父が現われて、
「この野郎メラ、オライ(我が家)の桐の木切ったなあー」
と大声で怒鳴りだした。(桐の木は植樹していたそうだ)

川の土手に生えている木は「誰の物でも無い」とばかり思っていたオラ達は、
事の重大さに気付き、 地べたに土下座して謝った。


★(42) 筍(竹の子)のシーズンの、3時のオヤツ。
筍の皮の真中に梅干しの種をとった梅肉を乗せ、その皮を三角に折る。
そして、その一角に口をあて、「チュー、チュー」と吸い込む。
すると、スッパイ味が少しずつ口の中に広がって来て、
かなりの暇つぶしにもなった。


★(41) 俺が中学校を出た年(39年)に、
初めて名取市へ企業が進出して来た。
22歳(!?)になったとき、今度はサッポロビールが名取へ進出して来た。
そのサッポロビール工場は、我が家から3キロくらい離れた所にあった。

さて、ある夜の出来事。その夜は物凄く霧が深かった。
何気なく、家の外に出てみた。
すると、なんと北西の夜空が真っ赤に染まっていたのである。
そのうち、ご近所の方々も
「何だ、何だ、あれは何だ? 火事か? オーロラか?」と大騒ぎ。
結局、みんなで誘い合い、その方角に向かい歩いて行った。
何があるのか分からぬ現場までの道を、町中の沢山の人達が歩いてる。
約40分歩いた時に、やっとその「真っ赤な夜空の原因」が判明した。
その原因とは、「サッポロビール」と書いてある、赤い文字の大きなネオンだった。

つまり、“ 夜霧がスクリーンになって、
そのスクリーンにネオンの赤が映し出された ”ということだったのだ。

それにしても、町の人達が次から次へと現場に集まって来る。それもとめどなく。
その光景は、まるで映画「未知との遭遇」のクライマックスシーンのようだった。

【名取に初めて設置されたネオンによる一夜の大騒動。これにて一件落着!】


★(40) 俺の生まれ育った名取市は仙台市のすぐ隣り。
今でこそ「仙台のベッドタウン・名取」と言われ、
人口も多くなり、大企業も信じられないほど増えた。
しかし、俺達が中学校卒業するまでは、地元の町工場や商店はあったが、
企業といわれるようなものは一軒たりとも無いロンサムシティだった。
だから、中卒で働く人は、仙台で働くか、
もしくは集団就職で東京へ行くかの選択だった。
ところが、俺達が中学校卒業の時から、名取に2つの企業が関東から進出して来た。
「おたふく綿 株」と「今井乳業 株(アイスクリーム製造会社)」。
(現在は2社共無し)

その今井乳業が進出二年後に、
アイスクリーム工場に隣接してスケート場をオープンした。
県内初のスケート場だったこともあり、スケートブームになる。
土曜・日曜ともなれば、県内各地の若者が名取めがけて集まり、
物凄く賑やかになった。 そして俺も、スケート場にはショッチュウ通った。
だから俺のスケートの上手さは誰にでも自慢できる
(今回は何を言いたかったのかというと、ただスケートの自慢をしたかっただけ。)


★(39) 小・中学生の時、冬休みになると、毎日田んぼで野球をやって 遊んだ。
ボールはゴムボール。バットは竹バット。
オライ(俺の家)は、農家じゃなかったから、竹が無かった。
だから、農家でモウソウ竹がいっぱいある家の同級生が、いぎなり羨ましかった。
ある時、その同級生に、「そんなぬ竹欲すいごったら、
何本でもケッカラ(くれるから)」と言われ、 学校帰ってから、喜んで貰いに行った。
片道4キロを歩いて行ったのだ。
竹を10本貰い、また4キロを歩いて帰った。
途中、お墓があって、少し暗くなって来ていたこともあり、
恐いのでオモイッキリ走った。
ところが、竹を縛らないで担いでいた為に、何度も落としてしまい、
家に着いた時には、竹バットは3本だけになっていた。
 

                                                                                       
【方言】 ワラスメラ = 子供達                              


★(38) 同じ歳で仙台育ちの浅野君と、ある時 音楽について話をしていた。
(浅)「団十郎が一番最初に買ったレコードは何や?」
(団)「俺が最初に買ったのは “パット・ブーンのスピーディ・ゴンザレス ”だ。
    それも買ったのは中学校卒業してがらだ」
(浅)「何すや、遅いごだーーー」

確かに「遅い」、しかしだ。
その頃は名取市には “レコード屋 ”は一軒もなかったのだ。
名取にレコード屋ができたのは、俺が17歳の時。
それも時計屋の店内のイッカクに、ほんの少しだけのレコードが並べられた。

オレらが小・中学生の頃は、「仙台に行く」といえば、
イッチョウラ(トッテオキ)の服を着て行くくらい、
滅多に無いことである。(一年に4回くらい)
そして、中学生の時の小遣いが、1日10円。
それぽっちでは1枚330円のレコードなんて買えるわげネエべっちゃ!


★(37) オラが5歳の時、近所のS子ちゃんとF男くんと3人で遊んで いた。
何の拍子か忘れたが、お医者さんごっこになった。
S子ちゃんが医者でF男くんが患者さん。俺は順番待ちの役。
S子ちゃんはF男君に病名も告げず、F男君のパンツを下げた。
そして、「チョンチョコにお薬塗ってやっから」と言って、
自分の指を舐め、その濡れた指をF男くんのチョンチョコにコスリつけた。
“ぬりぬり”の作業が終わると、「包帯を巻くがらね」と言って、
カバヤキャラメルの包み紙をチョンチョコに貼りつけた。そうしてF男君の診察を終えた。
「次は昇ちゃん(オレ)のを診っから」と言われたが、
オラはオショスイ(恥ずかしい)ので、「ドコも悪ぐねぇおん」と言って断わった。
(ちょっぴり ウブな団十郎なの)


★(36) 毎年、稲穂の脱穀が終わると、近所の小さい田んぼにワラがマ カレル。
まさに、ワラのブ厚いマットの出来上がり。
そうなると、オラ達は田んぼのワラの上で遊ぶんだ。
相撲ごっこやモグラのように潜ったり、ワラ投げ合戦等々、とにかぐ楽すいんだ。
でも、1ヶ月くらいたった頃。
学校終ってから、一目散に行って見ると、
なんと、ワラの上には「ダラ」(糞)が撒かれているんだっちゃ。
そうなんだずば! そのワラは堆肥(たいひ)を造るためのものなのっしゃ。


★(35) オラが小学生の時、16歳も年上のあんちゃん(兄)に、
沖縄の恋人ができた。
この頃はまだ、沖縄は返還されていなかったので
パスポートが必要だったのかもしれない。
さて、その恋人から我が家に、鉄道便で荷物が届いた。
その荷物を開けて見て、家族みんなが大喜び。
中に入っていたのは「パイナップルでした」

生まれて初めて見るパイナップル。
さっそくホイジョ(包丁)で切った。
するとナント「パイナップルの真中って、穴 空いでねぇのっしゃ? 不思議だぁ・・・」
(私はこの時まで、缶詰のパイナップルしか見たことがなかった)


★(34) 少年の頃、バナナは1年に2本くらいしか食べられなかった。
よく漫画本や映画なんかでは、バナナの皮を間違って踏んで、
滑って転んでいるシーン なんかがあったので、
オラはバナナ食うと、必ず皮を地べたにおいて、どのっけ滑っかをテストした。
その結果、「漫画程、滑んね」っていう事が分かった。

 昭和28年2月28日のニュース。
 日本が台湾からバナナを初輸入することが決まった。
しかし直接日本に入って来るのではない。
なんと、台湾から香港へ、そして香港から日本へ。といった具合に
三角貿易で輸入することとなったのである。


★(33) 昔はどこの家にも冷蔵庫なんて無かった。
だから、魚などは物凄い量の塩をまぶして売られていた。(腐らないように)
それらの呼び名は「塩クジラ」「塩びき(シャケ)」

弁当のオカズに入れるときは、あまりにもショッパイので、ほんの少しだけ入れれば、
ほかにオカズは必要なかった。(ある意味では、とても経済的なオカズだったと言える)


★(32) 俺の弁当箱も筆箱も下敷きも、全部「ジュラルミン」でできて いた。

そのジュラルミン弁当の真ん中に梅干しを入れていくと、
梅干しの周りのご飯の色が、ジュラルミン色(鉛色)に染まっていた。


★(31) 運動会は、みんな裸足で走った。
徒競争のときは、足の親指からカカトにかけて輪ゴムをつけた。
そうして走ると、速くなるんだって!?


★(30 )オライの かあちゃん(おふくろ)の整髪料は、椿油だった。



★(29) 小学校5年の時、学校内での出来事。
作法室の掃除当番だった俺達は、その部屋の畳の上に、
それまで見たことも無い変な物が落ちているのを発見。
透明で、風船のような形をしていて、
中にはドロドロした卵の白身のような液体が入っていた。
オラ達は「何だ? 何だ? 気持悪いごだや」って言って、
竹の棒の先にブラサゲ、クラス中を走り廻った。

それから数日後、今度はバックネット裏の林の中から「ドロドロのゴム風船」
を発見した。

そして10年後、オラが大人になったとき、
初めてそのドロドロ風船が何だったのかが分がった。

あの当時は、誰の家にも個人部屋は無いし、モーテルなんて物も無い。
マイカーも無いし、お金も無い。外でオコナウしかなかったのだろう。
それにしても、誰がやったかは知らないが、
作法室でオコナッタとは! 「この作法知らずめ!」


★(28) 近所の遠藤お菓子屋に来て買い物をする進駐軍は、
たばこを吸う時、マッチ棒を皮靴にコスって火を点けていた。
子供だった俺は、「アメリカって凄ぐ進んだ国だごだ」って、感動していた。


★(27) 俺達、小さい頃の遊びには「チャンバラごっこ」があった。

 土手に生えている木の枝を削って、名刀を作る。(反りの良い枝を選ぶ)
 それぞれの名刀に、銘をつける。
 俺の名刀には「村雨」と付けた。
 実君も、村雨と付けたがっていたが、俺が先に付けた為、どうやらあきらめたようだ。

 さて、ルールは、敵と味方のフタテに分かれる。
 それを「いいほう」「悪いほう」と呼び合う。
 
 それぞれが、陣地を出て切り合いをする。
 切られたら、そこからは一歩も動いてはイケナイのだ。
 でも、数字を「百数える」と生き返れる。もしくは、味方が「タッチ」に来る。


★(26) 多くの人は、TVドラマの「風小僧」は、山城新吾だけだと 思っている。
 しかし、初代は目黒ゆうき(松方弘樹の弟)なのだ。
  
 風小僧の少年時代は目黒ゆうきで、その風小僧の剣術の師匠が、山城新吾だった。
 そのシリーズが終了後、しばらくして新シリーズの「風小僧」が始まった。
 そのときの風小僧は、青年に成長していて、山城新吾が風小僧役だった。


★(25) 小学校の頃、
 家の近所に増田町(現在の名取市増田地区)の診療所があった。
 そこの医師の息子さんの「ハルキちゃん」とは、仲の良い遊び友達だった。
 
 ハルキちゃんの家に遊びに行くと、
 ハルキちゃんのお母さんは、いつも僕達に、カルピスを飲ませてくれた。

 カルピスの味はといえば、ラムネなどとはまったく違い、
 トローリとしたスッパイ味 だった。そんな味に、
 子供の僕としては多いに戸惑ったもんだ。

 そういえば、当時のカルピスの宣伝文句は、「カルピスは初恋の味」だった。
 しかし、オラ達にとっては、「カルピスは金持ちの味」。
 もしくは、「カルピスは異国の味」であった。


★(24) 同級生の中に、3人くらいはオカッパ頭(長髪)がいた。
その人達は、金持ちの子供だった。

 一般的に、男子は坊主頭。シラミがたからなくてとても便利なスタイル。
女子は長髪だったので、大抵シラミがたかっていた。
だから学校では、生徒全員に “ DDT ”を噴霧機で「シュッ、シュッ」と、
頭や背中やパンツの中に吹きつけていた。

 シラミとくれば、次はノミの話。

 1ヶ月に1度、体重測定があった。
測定日の前日は先生から「明日は測定があるからパンツを取り換えてくるように」
と親切に教えて貰う。
 測定は全員、パンツ姿にならされ体重計に上がる。
しかし、必ず何人かは、取り換えるのを忘れてくるやつがいる。
そんなやつのパンツは、決まって「ノミ糞」が付いていて、実に汚かった。
勿論、オラだって取り換えて来るのを忘れることがある。
そんな時は、サラシ者になっているような恥ずかしさで
「身体をチジメテ」体重計に上がったもんだ。

 昔は現代のように、パンツは毎日取り替えることはなかった。
 あるとき、先生が授業で、「パンツは何日に1回、取り換えるか?」を調査した。
平均は、3日から5日だった。長い人では8日。


★(23) 小学校の頃の傘は番傘だった。
 誰の傘も同じ造りな為、間違われやすかった。
 ところが、中には間違われない為にと、
 傘の油紙の上に、「佐々木」とか「高橋」といった具合に、
 ドデカイ文字で苗字を書いていた家もあった。


★(22) 5才まで、50銭というお金を使っていた。
 遠藤お菓子屋に、2円50銭の「ラッキョウ飴」というのが売られていたので、
 50銭の存在を私はハッキリと記憶している。

(1円未満の通貨は昭和29年に無効となった)


★(21) 近所の店屋(遠藤お菓子屋)に、米兵が買い物に来ると、
 オラ達子供は米兵の後をついてまわる。
 そして、「ガム買ってー、チョコレートでもいいよー」とネダッテいた。


★(20) 小さい頃のこと。
 青葉城は直接見学することは出来なかった。
 広瀬川の橋の入り口に検問所があり、そこにはGHQ(米兵)がいて、
 住所・氏名を記入させられ、許可を貰って入っていくようになっていた。
 
 橋を渡って行くと、大手門の周りの坂道では、
 アメリカの子供達がローラースケートをして遊んでいた。


★(19) 子供の頃あこがれていた飛行機が アメリカの双胴機 “ P−38 ” だった。
 その、カッコイ P−38が、ときたま矢ノ目飛行場へ飛んで来た。
 僕達が外で遊んでいると、「ブ〜ン」とプロペラ音を轟かせ上空に現れる。
 そんな時は、オラが隊長になって、大沼二等兵さ「打で−!」って命令するんだ。
 とぬかぐ興奮すたもんだった。

 ところで、ある日の事、相変わらず大沼君と外で遊んでいると、
 上空に自衛隊の練習機 “T−6 ”が現われた。
 いつもの如く、オラと大沼二等兵は腹ばいになって、
 その飛行機めがけて機関銃の音まねをした。「ダダダダダダダー」
 するとどうでしょう。
 何となく飛行機が低空飛行になって去って行った。
 オラは大沼君に「敵機、 1機撃墜!」と報告をした。そして戦争ゴッコを止めた。
 今度は、二人で “四葉のクローバー ”を探して遊んだ。
 次の日、朝刊を見て驚く。次のように載っていた。
 「昨日、矢ノ目飛行場の練習機。エンジントラブルの為、道路に不時着!」
 こんな事、あっていいんだろうか・・・。


★(18) 中学生の頃に流行っていたオートバイは、
 「メグロ」「トーハツ」「メイハツ」「山口」「ライラック」「陸王」「ラビットスクーター」。
 三輪車は、「クロガネ」「ホープスター」「ミゼット」。
 軽四輪車では、「スバル360」「マツダキャロル」「マツダクーペ」。
 しかしオートバイは、やがて「ホンダカブ号」「スズキ」「ヤマハ」「カワサキ」の台頭で、
 それまでのメーカーの殆どが倒産。
 三輪車は需要が無くなり全て製造中止。


★(17) 同級生の女性が履いていたストッキングは、
太腿の所でゴムバンドで留めるものだった。


★(16) 叔父の仕事は番傘(竹)造りだった。
 傘に張った和紙に塗る油は、
「ジュウネンの種の油。
更に、骨のあたる部分には補強の為に柿の実の渋汁」だそうだ。


★(15) 20歳くらいの時、「サラダです」と言われ “生の野菜 ”を出されてビックリした。
 それまでサラダと言えば、“マカロニ入りポテトサラダ ”だけしか知らなかった。
 つまり昔は、野菜は人糞をかけて育てていた。
 だから野菜は、回虫予防のため、必ず熱を通して食べなければいけない物だった。


★(14) 戦後、宮城乳業(名取市)の裏山から、
隠されていた “隼戦闘機 ”が2機発見されたそうだ。
 敗戦と同時に、日本軍は矢ノ目飛行場(現在の仙台空港)から
運んで山に隠した。


★(13) あんちゃんはラビットのスクーターに乗っていた。
 俺が中学1年の時、そのスクーターに乗って梅林に激突し、壊してしまった。


★(12) グリコキャラメルを食べて、景品の応募でゲルマニュームラジ オを貰った。


★(11) お風呂の水は川の水。両手にバケツを持って運んだ。
 風呂桶の中に、メダカが入っていたことがあった。
 お湯が熱くなってウスメル水を川へ汲みにやらされた。
(暗くて川にハマルこともシバシバ)


★(10) タバコの箱の中の銀紙(錫)を、貯めて丸め、大きくして売り に行った。


★(9) 電信柱の工事をやったあとに行って、
電線の切りカスを拾った。(貯めて売りに行く)


★(8) 子供の頃はバレンタインなんて無かった。


★(7) 蛇がいると、兄貴は得意になってつかみ、焼いて食べた。


★(6) お祭りで買ったオスのヒヨコ。大きくなったら、家族がたべた。


★(5) 中学生になると、格好をつけて桐の高下駄を履き、
カランコロンと音を鳴らして歩いた。


★(4) 小学校の頃、学校の上履きは、
ワラ草履(ぞうり)もしくは筍(たけのこ)の皮で造った草履だった。
 どちらかと言うと、竹の子の草履の方が高かったんだって。
(勿論、お金持ちの子はズック)


★(3) 革靴の底に穴があいても履いていた。
 だから、雨が降ってくると大変だった。そんなときは、足を O脚にして歩いた。


★(2) 雨が降ると必ずゴム長靴を履いた。当然、ゴム長で仙台へ仕事に も行った。


★(1) どうしても、スニーカーのことを、「ズック靴」と言ってしま う。