週刊雑話 第24回「堺・キリシタン遺跡を歩く(後編)」 (1999年2月7日)
阿免寺
参考文献
『百山』第31号(正月号)
クリスチャン新聞
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堺市旧市街ど真ん中を南北に走るチンチン電車。 大道筋の中央に専用軌道があり、なんの障害物 もなくどこまでも真っ直ぐ延びる。 なんとなくゆったりとして大好きな風景である。 |
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南北の大道筋、東西のフェニックス通が交差する 宿院あたり。 写真でははっきり見えないが、交差点西側のフェ ニックス通に常夜燈が2基そびえ立つ。 |
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戦前は、宿院でチンチン電車は二つに分岐。 現在と同じはるか南の浜寺公園を目指す線路と、 左写真のように宿院で大きくカーブ、西にある大 浜海水浴場へと向かう大浜支線があった。 左写真とだいたい同じ場所から撮影したのが、上 の写真。今も昔も悠々とチンチン電車が走る。 |
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交差点からちょっと南西へ行ったところ。ビルの谷 間にあった「千利休屋敷跡」。 千利休が茶湯で常用していたといわれる椿井が あった。 |
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宿院でフェニックス通を西へ。 しばらくすると白いフェンスに囲まれて工事中の 旧堺市民病院跡が。 一昨年の「0157」で、たくさんの人がこの病院へ きたはず。 自分の目指す「阿免寺」は、この旧堺市民病院 の南にある。 |
| 自分が「キリシタン遺跡」に興味を持った最初のきっかけは、知人から「どうやらキリスト教に関係している 寺らしい」と阿免寺のことを教えてもらったことである。「阿免寺」と「アーメン」、堺の歴史を考えてみれば、 そんなお寺があってもおかしくはない。さっそく電話をして阿免寺を訪問した。
阿免寺が開かれてから約400年間。寺に代々伝えられてきた話がある。 堺に宣教師ザビエルの一行がきて、布教のできる大きな屋敷を求めた。堂々と教会を開くことはできず、 去る豪商の海に面した別荘を借りて拠点にしたという。その場所が現在の寺の所在地で、400年の間に 海岸線が後退、今は1キロ近く海から離れている。最近、寺の敷地内で井戸を掘ったとき、地下で砂地の 地層が見つかり、貝とかが含まれていたという。 他の参考文献を読むと、ザビエルが世話になった堺の商人は日比屋了慶で、三階建ての豪邸を開放して 教会にした。その場所が現在のザビエル公園、というのが定説である。このあたり少々矛盾するが、とに かく、阿免寺のある場所が、キリスト教宣教の拠点であったらしい。 1570年代から豊臣秀吉による1587年の禁教令に至るまでが、近畿地方のキリシタン黄金時代であっ たと言われる。それ以降、厳しい弾圧のなかで宣教師が去った堺の町に、念仏の布教にきた光阿浄林 上人(こうあじょうりん)が、宣教師と同じように豪商と出会い、別荘を拠点とし、布教につとめ浄土宗として の寺になったのであろうと言われている。 当然宣教師は去っても、信仰を持っている人々は堺に残るわけで、光阿浄林上人が「キリシタンもそれと なく裏で拝まれたらいかがですか」ということで、キリシタンをかくまったようである。自分の宗派である浄土 宗の「他力本願」(自分の力ではどうしようもないから、何か大きな存在に頼ろうとすること)の教えに、よく 似たキリスト教に共感し、同情を抱いたのかもしれない。 堺は幕府の直轄地で、阿免寺は浄土宗のお寺。徳川家も浄土宗を信仰していた。そういう関係から、キリ シタン弾圧が特に厳しかった堺ではあったが、多少のお目こぼしがあったのかもしれない。多分2、3代後 の時代には、隠れキリシタンの数も減少。いつの頃からかは知る由もないが、阿免寺をこっそりと訪れる 信者は誰もいなくなったのだろう。
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