「しょうよう歌」は二枚ある。一枚は自費制作のもので、もう一枚はフィリップスから出たもの。自費制作の方は限定千枚で、今や″幻の名盤″と言っている。これは話が重なるけれど、バイトのお金をぷち込んで作ったもの。そして、友達の力を借りて売り歩いたもの。だから、〃血と汗と涙の幻の名盤″と言っている。
「しょうよう歌」のモデルは俺であるが、なぜ、この題名をつけたかというと、高校の応援歌のひとつに「逍遥歌」という歌があってこれは試合に負けた時にだけ唄われるというまあ慰安の歌なのだが、ちょうど当時、俺も恋に負けたところだったので、この題名が浮かび、ひらがなにしてそのまま自分たちの歌につけてしまったというわけなのだ。
今、広島で銀行員をしているE、荻原誠、俺という三人の学生バンドだった飛行船は、学園祭などでささやかに活動をしていたが、そろそろ身のふり方を考えてみる時期だろうということで、大学三年の秋、学園祭を最後に解散ということになった。
一応、音楽をやっているものにとって、ひとつの夢はレコードを出すということだろう。
それは、今も変わりはないはずだ。でも、まあ簡単にレコードを出せるわけはない。俺達にはカネもコネももちろんなかった。いや、金はわずかだったがあった。ようし、レコードを作るのにいくらかかるか知らないが、自分達で作ってしまおうぜと、ここで一気に盛り上がってしまったのだ。もっとも、俺がその時持っていた金は三万円ぐらいだったが。
調べてみると、全然足りないことがやはり判明し、誰かに借りようじゃないかということになった。当時のバイト先であるミスター・ポテトのDという人に二〇万ほど借りて、みんなの金を集めて三〇万になった。
録音場所は東京・高田馬場にあるBIGBOX、その九階にビクターミュージックプラザがあって、そこの九〇一スタジオ。そのビクターミュージックプラザ、通称VMPでは、後に俺の事務所の社長になる湯田さんとか、マネージャーになる藤沢とかオフコースのPA、レコーデイソグミキサーになるシローさんとかに会うわけなんだけど、まあ話をもとに戻して。
スタジオというのは初めてで、ひどく感激したのを覚えている。何もかもがピカピカ光ってみえた。メンバーは俺達三人と、コーラスとして高校の後輩たちが三人(この中にはいずれバンドに加わることになる小野寺が入っていた)、それからギャラリーとして何人かいてまるでお祭りだった。
録り方としては、まずメンバー三人でピアノ、アコースティックギター、エレキベースを入れ、その後でKがドラムを叩くという変則的なやり方だった。
必死の練習の成果が遺憾なく発揮され、短時間でリズム体は無事録り終えることができた。次にフルート。萩原の知り合いにどこかの音大に通っているという女の子がいて、フルートはその娘に吹いてもらうことになった。
極度の緊張の為か、その娘の顔はひきつっていたが、汗をかきかき、上手い下手を別にしてそのひたむきさが何か俺達の胸を熱くさせ、OKが出た。
そこで、今度はボーカル。それは俺で、結局ボーカルが一番時間がかかった。二本録ったうち結局、雰囲気が良い方が選ばれレコーディングも終わったかに見えたが、俺はその時小さな声で言った。
「あ、あのさあ。お、おれ、歌詞まちがえて唄ってるんだょな」
「な、なんだと」
みんなの視線が俺に集中した。俺につかみかかろうとして押えられている者、プイと横を向く者、白眼をむいてハアハア口からよだれを出している者、一触即発とはまさしくこの場面のために作られた言葉だった。もう借りていた時間はとっくに超えてしまっていた。
間違えた個所は一番の後半で、
二月の街に あなたは一人いるのか
それを、二番と同じメロディーの
このままに 二人は別れいくのか
と唄いそうになり、
こんがつの街に
と唄ってしまったのである。
今だったら、そこの部分だけ入れ換えるとか方法はあるんだけど、その時はそんなことは誰も知らない。
結局、これは、こういう風にとらえようということになった。
「こんがつ」これは九月という風にもとれるし五月という風にもとれる。で、どっちが歌に合っている月かというと五月の方が良い。
歌詞を五月に直そう!それで、ひとつどうだろう。そう俺は労働組合の団交の席上、労働者側幹部に囲まれ汗をにじませ、うすら笑いを浮かべながら答える経営者のように切り出した。
みんなは、一瞬あっけにとられ、そのあと顔を見合わせ、
「ウーン、三千五百二十三円アップか。おいどうする?俺、朝出がけにカアちゃんに負けるんじゃないよってハッパかけられてきたんだけど、まあ、この線だったら許してもちえるかなあ、おいどうする?」
というような会話がみんなの眼で交され、結局、しぶしぶながらOKが出た。しかし、俺は、またその後言わなくてもよいことを言ってしまった。
「まあ、記念、記念。陽気にやろうぜ」
みんな、あきれ返っていた。 〔
その録音テープがレコードとして出来上がる、それだけがその後からの楽しみとなった。待つこと二ケ月、ついにレコードは黒い輝きを見せながら俺達のもとに届けられた。
レコードは語っていた。
(俺はレコードだ。誰が何と言ってもレコードだ。お前たちの歌なんか本当は本当はレコードにするなんて恐れ多いことなんだが、まあ、許してやる)ここまではかなり強気なんだが、次から急に女っぽくなる。(さあ、煮るなり焼くなり、投げ輪にするなり好きにしてえ)
俺達は息をとめ、レコードを見つめそして、恐る恐るレコードにさわってみた。
「エヘヘヘ、へへ、レコードだってよ、俺達のレコードだってよ。へへ。エへへへへ」
さっそくレコードはプレイヤーの盤の上に重々しく乗せられ、針が落とされた。
腕を組み、眼をつぶる者。ひざを抱え、床の一点を凝視する者。流れる俺達の歌に聴き入りながら各々がいろいろな想いにかられる。酒が運ばれ、笑顔がこぼれはじめる。みんな良い顔してた。
次の日から、さっそくレコード売りが始まった。コネを頼りに売り歩いた。電車賃の方がレコードの値段よりもはるかに高くついたり、駅前で見知らぬ人に声をかけてみたり、みんな頑張った。一枚でも多くの人間に聴いてもらおうぜという気持ちだった。
釜石では、高校のギター同好会のOBをメインにした音楽団体(ユキ音と言っていた)があって彼らの力も借りた。釜石にレコードを運んだ足で、母校(言葉ほど愛してはいないが)の高校にも立ち寄った。まだ何人か残っている在校時の先生にも買ってもらおうということだ。俺の二、三年の時の担任だったMという先生、この先生は根が暗い人で、性格的にはちょっとサドおけさという感じ。高校二,三年生は、この先生にいびられまくった。今日のこの俺の歪んだ性格はこの先生によってつくられた、そう言っても過言ではない(ということ自体が過言だな)。
案の定、三年ぶりに姿を見せたこの俺を前に、また、あの先生の地獄のねちねちが始まった。
「あんべ、お前何やってんだょ。まだ、そんたなこと(そんなこと)してんのか。高校の時がら少しも変わってねえな。レコード買ってけろってが(買ってくれっていうのか)?俺も先生長いことやってっといろんな奴、先生先生って何やかにや売りにくるんだ。いちいち、そったなものに付き合ってたら、大変だじゃあ。これ作ってなにするってや。まさが、これでメシ喰ってぐわけじゃねえべな。夢みてえなごど考えでねえでもう少しちゃんとせえじゃ」
いちいちが耳に痛く、わかっていることだけに腹がたってくるのだった。
「わかりました。先生、どうもおじゃましました。買ってもらわなくても結構です」
席を立とうとした俺にこの先生は、
「まずまず、あんべ、そんな顔すんなって。しようがねえなあ。これ何んぼ(いくら)や。
それじゃあ二枚置いでげ」
俺は一瞬どうするか迷ったが、でもその時みんなの顔が浮かび、俺は頭を下げて、そのお金をおし頂いた。気まずさが漂い俺は早々にその場をひき揚げた。夏の夕暮れ、グラウンドには現役の奴等が見知らぬ顔でボールを追っていた。歩いているうちにさっきまでの怒りみたいなものが薄れ、自分の甘さと、それからなんだかんだ、先生という商売も大変だよなあ、などと思えてきて、めずらしく、つんときてしまったのだった。
番組を通じて宣伝してもらおうということで岩手放送を訪ねたのもその時。北口さんに会ったのもそれが初めてだった(この人に関しては後にふれる)。
みんなの努力の甲斐あってレコードも完売、打ちあげの費用もしっかりひねり出すことができ、世話になった人たちを招いてのささやかなパーティーで俺達のレコード自費制作という解散記念行事も無事幕を閉じることになった。
さて、その自費制作レコードをコーディネイトしてくれた人が、当時、BIGBOX企画室にいたMさんという人で、若い奴等が大好きなMさんは初めから俺達に好意をもってくれていた。俺達のふところ具合を気遣って制作費を安くしてくれたり大変お世話になった。
そのMさんが「しょうよう歌」をいたく気に入ってくれていろいろ知り合いに歌を聴かせまくり、ひとつのうれしい話が俺達の耳にとびこんできた。
「レコードを出してみないか」。フィリップスレコードからの話だった。俺は耳を凝った。うれしかったけど、変な自信みたいなものはあったけど、その倍ぐらい、これは一体どうどういうことなんだと、半信半疑だった。
フィリップスでは、″カレッジフォークよもう一度″的発想があったのだと思う。
メンバー三人で話し合った結果、kは故郷に帰るということになり、萩原と俺は二人でどうしようか、もう一度話し合った。
萩原は家の仕事を大学卒業後やっていくことになっていたが心は音楽の方に大きく傾いていた。俺は一応広告屋にでもなろうかなと、これからのことを漠然と考えていただけだったので、萩原がやるんだったら俺もひと口のるぜ、と甚だ頼りない気持ちでいた。この辺が俺が出遅れてきた原因だな。とにかく、まあおもしろいからやってみるかなどと楽観的に心を決め、新しいメソバーを加え俺はまた歌を作り始めた。
学生の時のオリジナルは「しょうよう歌」、「ラストショウ」の原型「プラットホーム」、「サンライズサンセット」の原型「白夜」、「大和めぐり」「ネコのバラード」それだけしかなかったのである。
新しいメソバーとしてドラムの小島光浩、キーボードに小野寺進が加わり、マネージャーに高校時代からの友達の大藪邦融を無理やりやらせ、練習が始まった(彼らの性格については後でふれる)。
フィリップスレコードのAディレクターを紹介され、アレンジは石川鷹彦さんにお願いしようということになった。
吉祥寺の石川さんのお宅に萩原とAさんと三人でうかがってアレンジの打ち合わせをした。ほぼ、自費制作盤と同じアレンジにすることになった。B面は「大和めぐり」と決まった。
録音場所は目黒にあるパイオニアのスタジオで、バックはスタジオミュージシャン達によって演奏された。やはり、プロだな、うまいなって思った。でも、どこかよそよそしさが漂っていたような気がした。音にね。
ジャケット写真の場所は代々木公園が選ばれ、公園の公衆便所で全員着替えをすませると、それぞれ思い思いに自分最高の顔をつくり青空の下、風に吹かれ、カメラのレンズをみつめていた。カシャカツャカシャとシャッターが切られていく。たまにフィルム交換の為、間があくと、演技している自分と隣に気付き、テレ隠しの為のバカ笑いをするのだった。それでも、またシャッターの音がすると「ムッ」とまた自分最高の顔に戻るのだった。
後日、出来上がったネガを見てみんな一同驚いたのは、小野寺のポーズが百枚ぐらいあるどのネガを見ても同じだったということだ。あいつは、ちょっと異常なのではないかとあらためて小野寺の特異体質に一同気付かされたのだった。
どのカットを見ても小野寺は小指をくわえ眼を右斜め前方に移しているのだった。
ジャケ写の撮影の前日、俺達によって長くわいせつな髪を泣き泣き(本当に)切られた小野寺は、どうしたら自分が魅力的に写真にとられるか、それを一晩中考え思い悩み、その撮影の日に臨んだのだった。
所属事務所などなかったので、BIGBOXの企画室が俺達の連絡先となった。
大学のキャンパスでの話題といえば、クラスのやれあいつは何とか新聞に決まったとか何とか銀行に決まったとかというような、就職に関することだけだった。俺と萩原はぼんやりとそんな景色をただながめているだけだった。
フィリップス盤「しょうよう歌」は一九七五年七月二十日に発売されたが、結局、飛行船の廃盤第一号になった。
時間は、有無を言わせず流れて行き、俺の中でのあいまいな気持ちを切り捨てさせていくのだった。ただでさえ遠かった大学が、ますます遠ざかっていくのがよく見えた。