枯葉作戦とは何だったのか
道
AALA副理事長 鈴木 頌アメリカにとって史上最大の戦争
ベトナム戦争は、物量の規模からいえば第二次大戦をしのぐ史上最大の戦争でした。
現在も正確な統計は出ていませんが、およそ
300万人近くのベトナム人が死亡、400万人のベトナム人が負傷しました。また5万8千人以上のアメリカ兵が死亡しました。アメリカにとっても大変な戦争でした。アメリカ政府の発表によると、ベトナム戦争に使った費用は3520億ドルであったといいます。延べ650万人の若者が動員され、直接戦争に参加しました。1969年のピーク時には、南ベトナムの地に54万3千4百人のアメリカ兵が駐屯していました。この戦争のあいだに、アメリカは
785万トンの爆弾(銃弾は含まない)をベトナムに落とし、7500万リットルの枯葉剤(ダイオキシンを含む)を南ベトナムの森林、農村、田畑にばら蒔きました。あの第2次世界大戦中にアメリカが各戦場に落とした爆弾の量は205万7244トンだったことを考えると、面積あたりの爆弾はとんでもない量になります。アメリカが北ベトナムに落とした爆砲弾は、ベトナムの各施設を破壊しつくしました。小学校から大学までの各学校
2923校、病院、産院、診療所1850ヶ所、教会484ヶ所、寺、仏塔465ヶ所が灰燼に帰しました。
最初はケネディの時代から
アメリカはベトナム解放を阻止するため、
61年には介入を開始していました。それが本格化するのは63年になってからです。しかし枯葉作戦はそれよりずっと前、61年11月には開始されています。そもそもの目的は、第一に解放戦線の隠れ家であるジャングルを絶滅させること。次に、解放区で作られる農産物を汚染し、食料としては使えなくすることを目的としていました。
散布された農薬はエージェントと呼ばれました。オレンジ、ホワイト、ブルーの
3種類のエージェントが用いられました。オレンジとホワイトは、成長や代謝を阻害するものです。2・4−D(ジクロロフェニキシ酸)と2・4・5−T(トリクロロフェノキシ酢酸)の混合物がエージェント・オレンジと呼ばれました。ホワイトは、2・4−Dと4−アミノ−3・5・6−トリクロロピコリン酸の混合物です。このうち特に大量に使用されたのがオレンジ・エージェントでした。稲などにはブルーが用いられました。ブルーは、カコジル酸を元にしたもので、植物の脱水化をはかります。
通常、エージェント・オレンジを搭載したC123輸送機が、
散布から
24時間以内に木々の葉は変色を始めます。そして1ヶ月すこしで落葉します。つぎつぎに生まれる新芽を殺すため、除草剤は繰り返し撒かれる必要がありました。こうして、通常の10倍もの濃度を持つ除草剤は、密林のあらゆる植物を殺してゆきました。作戦全体に投入された薬剤は
72,300立方メートル、溶剤以外の有効成分は55,000トンに及んだといわれます。散布面積の合計は、
170万ヘクタール。南ベトナムのジャングルの20%、マングローブ森の36%に及びました。これは、四国全体の面積にほぼ匹敵します。対象の大部分は密林で、水田や耕作地への散布は14%ほどでした。ベトナム戦争中期には、「ホーチンミン・ルート」周辺の密林を破壊する、もっとも大規模な特別作戦が企てられました。
ダイオキシンとは何か?
正式名称は、ポリ塩化ダイベンゾダイオキシンといい、化学構造は、
2個の亀の甲が2個の酸素で結ばれ、亀の甲の残りの炭素にどのように塩素が結合するかによって、理論的には75種の同族が存在し、塩素の結合のしかたによって、毒性は千差万別です。その中では、
2,3,7,8−ダイオキシンの毒性が最強です。この他に、コプラナーPCBと、ジベンゾフランも毒性が強く、これらはダイオキシン類として同等に扱われています。1958
年にウサギが極微量のダイオキシンで死んだことが、ドイツの学者により最初に報告されました。またベトナム戦争で、アメリカ軍が撒いた枯葉剤にダイオキシンが混入していて、流産や奇形の発生が多いことが報道され、史上最悪の毒物として有名になりました。ちなみに、ダイオキシンの毒性はあのサリンの2倍、青酸カリの
1000倍といわれています。またサリンは、空気中の水蒸気にさらされると無害になりますが、ダイオキシン類は1300℃の超高温でしか高速分解しません。
ダイオキシンの1日の摂取許容量は、農薬の100万分の1です。つまりダイオキシン類の毒性は農薬より100万倍強いのです。
農薬などの有害物質は、細胞の中の酵素、遺伝子や染色体に作用する結果、健康が害されます。このようなかたちで健康が害されるには、かなり高濃度の化学物質が必要です。
これに対しダイオキシンは、細胞質内のリセプターと呼ばれる物質と結合した後、遺伝子の特定部分と結合し、いろいろな遺伝子を活性化させます。そのために酵素の誘導、細胞の分裂の変化、細胞の分化の変化などが誘発され、がんの発生、奇形の発生、免疫の異常、発育の異常などが起こります。この作用は極微量のダイオキシンで起こすことが出来ます。
ベトナム戦争におけるダイオキシン被害
1962
〜1965年に使用されたエージェント・オレンジには、大量のダイオキシンが混入していました。総量170kgと考えられています。枯葉剤の撒かれた地区と、枯葉剤を扱った兵士とのあいだで子供を作ろうとした
1545人の妻を対象にしたダイオキシン被害の調査結果を掲げます。
ベンチェ省の枯葉剤散布地区で行われた先天異常発生調査結果
先 天 異 常 |
散布前 (A) |
散布後 (B) |
B /A |
流産 ルンフー村 |
5.22 % |
12.20 % |
2.3 倍 |
ルンファ村 |
4.31 % |
11.57 % |
2.7 倍 |
タンディエン村 |
7.18 % |
16.05 % |
2.2 倍 |
奇形児 |
0.14 % |
1.78 % |
12.7 倍 |
出典:綿貫礼子『自然』(
1983.4)
ベトナム戦争参加アメリカ兵士の妻を対象とした先天異常発生調査結果
先天異常 |
発 生 率 |
B /A |
|
|
対照群 (A) |
さらされた群 (B) |
|
不 妊 |
1.20 % |
2.80 % |
2.3 倍 |
早 産 |
0.61 % |
2.01 % |
3.3 倍 |
流 産 |
9.04 % |
14.42 % |
1.6 倍 |
奇 形 児 |
0.21 % |
3.14 % |
15.0 倍 |
出典:滝沢行雄『トキシコロジーフォーラム』(
1987.10)
枯葉剤散布地区では、流産が枯葉剤散布前に比べ
この他に、ベトナム帰還兵とその家族には、癌から子供の身体障害にいたる疾病が現われ、原因は枯葉剤に混入していたダイオキシンであると確信されるようになりました。この関係を調査したアメリカ科学アカデミーの
1993年の報告書は、ダイオキシンに暴露すると、軟組織腫、非ホジキンリンパ腫、およびホジキン病の3種類の癌になる可能性があるとしています。
【付録】ベトナム戦争とは何だったのか
第二次世界大戦終了直後の
1945年8月19日、ベトナムは独立を宣言しました。ハノイ、フエで蜂起が起こり、ベトナム民主共和国が樹立されました。国家主席にはホーチミンが就任しました。しかしその1月後、旧支配者フランス軍が再侵略し、戦闘に入りました。
1946年9月26日、北部を解放したホーチミンは、ベトナム南部の国民に独立闘争を呼びかけました。戦闘は長期化し、次第にフランス軍は消耗していきました。1954
年、有名なディエン・ビエン・フーでフランス軍は、大敗を喫しました。その後のジュネーブ会議で、ベトナムは北緯17゜線を境に2つの国家に分割されました。南ベトナムでは、ゴン・ジン・ジェムが指導者となりました。ジェム政権は腐敗と反対者への弾圧で、民衆の支持を失っていきました。ジェム政権とアメリカに対する反対運動が激化していくなかで、
1960年12月「南ベトナム民族解放戦線」が結成されました。民族解放戦線はアメリカと南ベトナム政府に宣戦布告し、第二次インドシナ戦争が始まりました。アメリカは本格的な軍事介入に乗り出しました。莫大なアメリカ軍がベトナムへ送られました。
強大な軍備を持つアメリカ軍に対し、解放戦線はジャングルでゲリラ戦を挑みました。戦争は泥沼化し、アメリカ軍も多大な損害を被むりました。
アメリカ軍は、木々を枯らすために枯れ葉剤をジャングルに撒きました。ベトナムでは現在でもその後遺症に苦しむ人々が多数います。
アメリカは、北ベトナムへの空爆も始めました。しかし次第に解放戦線の優位が明らかになり始めました。アメリカ国内では、多大な損害と莫大な戦費から、次第に厭戦気分が高まっていきました。
ジョンソンに代わり大統領となったニクソンは、北爆を停止し、撤退への道を模索するようになりました。パリで、北ベトナムとアメリカの交渉が行われ、
1973年、和平合意が調印されました。これにより即時停戦とアメリカ軍の撤退が決定しました。アメリカ軍は撤退したが、その後もアメリカは軍事援助を続行しました。戦闘が続きましたが、南ベトナム軍の敗勢は次第に明らかになりました。
北ベトナム軍と解放戦線は反攻に転じ、次第にサイゴンへ迫りました。こうして
1975年4月、ついにサイゴンが陥落し、ベトナム全土が解放されたのです。実に30年をかけてベトナムは民族独立をかちとったのです。
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